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明智光秀正義 信長の野望を砕く 秀吉の朝鮮出兵 宋氏対馬、倭の五王雄略など

投稿日時:2014/07/07(月) 06:45

【信長の野望→秀吉の朝鮮への出兵  吉備国:美作の五鉾 矛 たて 楯 祠1300年守備の家 東内誠:歴史の勉強】
■ 対馬の宋氏(対馬守・ 君主:秀吉→徳川 正室:マリア)
秀吉から李氏朝鮮(りし・ちょうせん)を服属させるようにとの命令を受け、義調や小西行長、島井宗室らと共に交渉に尽力する。
天正16年(1588年)に義調が死去するなどの悪条件もあって、交渉は思うように進まなかった。
なお義調の死後、再び家督を継いで宗家の当主となった。
天正18年(1590年)朝鮮から来日した使節を服属使・ふくぞくしと称して豊臣秀吉に謁見させた。
「秀吉はこれを朝鮮が服属したものと受け止め、朝鮮には明の征服事業の先導が命じられることとなる」
だが、この朝鮮使節は義智が本来受けていた命令とは違い、
秀吉による全国統一に対する祝賀使節を送るようにと偽りの要請をして実現した使節であった。

朝鮮は建国以来、明の冊封国であり、秀吉の明征服事業の先導を了承する可能性はなかった。
窮した義智は朝鮮に伝えるべき明征服(中国を侵略する為)の先導命令を、明への道を貸すようにと偽り要請した(假途入明)。
しかしこれも実現しなかった。

宋氏は 秀吉の命令には 頭を痛めた・・ 
しかし君主の命令には背くワケにはいかないから・・・

対馬と 半島の先っぽ までの 直線距離は と申しましたら、48km(時速10kmでも、片道が5時間ほど)

これは 今でも 400年前でも 1300年前でも 2050年ほども 前でも たぶん 距離は一緒

その対馬から 壱岐までも 同じような距離になる まあ、とにかく 目と鼻の先
そうは 言うても 台風などが 来ていれば 
それは 危険で とてもじゃないが 船は泊めておかねば それは危ない

今の時代でも 大風などがくる予見、ムードなら 港湾は止めるから 荷役作業もしない

その昔は 天気予報を 誰が 知っていたんじゃう 
西の空をみたり 雲の流れを読んだりしたんやろう
漁師や船乗り 船長たちの経験則 ってのも 大きいか

倭寇(わこう)は たぶん 対馬(つしま)や壱岐(いき)の島も拠点にしていたと思うので 
そんな航海技術を持った 家も多かったと思う 
倭寇=海賊・兼任の荒武者のような 商売人 と 解釈してもよいだろう

まあ 宋さん って 日本人系じゃあ ないような ご苗字だ

過去は 大陸から 来られた ご先祖やろう
 
嗚呼、ワシの苗字の 東内 って のも変っていて 少ないけれどね あるようで 無いんじゃ
今時は 苗字で 全国に住む その苗字 家の住所まで 調べられることができるネットもあるんです

しかし 織田信長 豊臣秀吉は 中国全土からインドまでも フィリピンあたりまでも 日本が制覇しちゃる って 考えたんだね

どうも この時代を調べていくと 銃が大量に 日本にはあったみたいだよ 
世界の武器庫だったんだ わが国が その時代

銃といえば さあ、 此処で 鉄の製造や 弾も造らねばならないので 非鉄金属も必要になってくる
鍛冶屋の 仕事も 必要になってきて その 鉄の技術が 進んでいたからこそ 
アジア制覇したい と 信長は そう思った 

銃を発明したのは 日本人ではないが コピーし 改善する器用さは 日本人は凄かったのだろう その昔から

それと 彼らは 軍事は専門家に 任せることも 進めたんだろう

秀吉は 元の出自は 百姓だったが、 最高位の地位を得た後は 
百姓は 農業のみを しておけ って そのような政策をしたみたい

敗軍の将を なんか 百姓が捕まえて 手柄をたてて 褒美を もらえるかと 逃走中の武将を捕まえて 秀吉の前に連れていったら 
その百姓数名を 死刑にし、百姓が なんかな そんなことは するな と さらし者に 秀吉さん は そうしたらしい

まあ それは余談だけれど 
秀吉は結果的には 現在のソウルあたりに あった その王朝の 城をどうも すぐに落とした

李氏朝鮮(りし・ちょうせん)の 城を奪った
このあたりの 歴史観は 今現在の ワシの知恵なので 
この先には 変更もあるかも 知れないですが そんな感じ

朝鮮サイドの歴史感は かなり違っているかも 知れないですよ

しかし その時代 半島が 中華の配下であったか どうかは 詳しくは知らないが 
日本は 完全独立国家であった事は 確かなことみたいです

アジア中を制覇しちゃる と 織田信長 豊臣秀吉は そのように 考えていたんだね~

その当時 欧州からも 何かと きていて この宣教師に化けた スパイもやる 白人は 自国へのレポートに 
この国とは戦争をしないほうが よい 
したら この日本国は 武器も大量に持っていて 軍事では 世界的にも 高いレベルにあり
宗教で 取り込んでいくほうが よい 
と その国の 国王に報告したようにも 歴史に書いてある

宣教師も諜報活動もする 今で言う スパイだったんだ

最初に書いた 宋氏の正妻が マリア って 名前らしいので 
どうも あちらの宗教にもかなり 宋氏 影響を受けた人だね

先日も 書いたけれども ワシの現在 住民票を 置いている 
大阪府高槻市も高山右近さん 一時は その昔だよ キリスト教の信者で埋め尽くされていたとある

とにかく 豊臣秀吉は ソウル辺りまで 進軍し
今から 400数十年前に 朝鮮半島を 中国侵略への通路としようと試みた
その後 秀吉の高齢 死もあって そのチャレンジは終わり、
その後の徳川政治では 朝鮮と仲良くやったんかな 




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その豊臣秀吉の時代よりも1000年前、魏志倭人伝にもあるが、日本には 倭の王がおられて

彼らも 中国に貢物をもって参上した

この五王のなかで 武 という王様は 雄略天皇になるのかな?



477年11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)
これより先、興没し、弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』夷蛮伝)



西暦488年 

武王 自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。

順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀)(「武」と明記したもので初めて)



豊臣秀吉から 1000年前も 日本の王は 朝鮮半島の王よりも 中国から厚遇をされていたみたい



安東アントウ将軍 倭王(わ・おう) というのは 雄略天皇のこと なのかな?

新羅・任那・加羅・秦韓・慕、

魏志倭人伝には それには そう書いてある。

1550年ほども 前に 日本の雄略天皇は 朝鮮半島南部も支配下に おいておったんかも 知れないか



東内誠 古代史の基本が 出来ていない のだけれども なので この雄略天皇 「武」 だよね

この天皇 悪く書かれている傾向だね

代が この後に 変ったんだろうか? 

解からないよね~



代が 変わると 前の TOPのことを 悪口書くという傾向も あるじゃない

秀吉のことを 江戸幕府が悪口を 言って 

その後 朝鮮とも 徳川は仲良く やった って ことも あるみたいだし

秀吉の死後 徳川が 豊臣を倒したでしょ



わしの興味は 西暦800年以前なんですが、

今 NHKでも 織田信長と 秀吉、 毛利 岡山県の 高松城の 水攻めの場面でしょ

そんで それまで この織田に 味方した 神道 6つの星の方々も、 



織田信長 が 天皇家を7/6放送では ないがしろにしようとした場面があったでしょ



この信長の 気配を見て 敵方に廻った と 空想してるんや ワシ



明智も 悩んだんだろう・・・

明智の手紙が 先日も岡山県で 発見された 報道も流れたんだよ

明智光秀 って 神職系のような かんじ も あるじゃない

明智 って 朝廷を重んじた方で 立派な人のようにも 思えてきてるのは ワシだけか?



ワシの住む 大阪府高槻市の山手側が 亀岡市で 明智との ご縁が深い地区なんだよ

そのあたりは 光秀ファンも 多いみたい

秀吉は 天下を統一した そりゃあ 立派な人であるが 人間的には 明智も捨て難い>

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