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岡山 1600年前 任那に倭人が居てそこは鉄も採れた 好太王碑に書いてある東内誠歴史の学習中

投稿日時:2014/10/13(月) 07:02

西暦400年頃、倭は任那日本府をほぼ間違いなく、朝鮮半島南端部に持っていた

前方後円墳(日本と同じ形のもの)も13基残っているらしい

現在の中華人民共和国の吉林省 集安市で発見された好太王碑にも 

漢字で倭国のことが 詳しく 巨大な石碑に残っている

どうも 高句麗と倭(任那 みなま/にんな)が 10年以上も その周辺で戦争をしたんだ。

西暦400年前後のことだから 今から1614年ほども 前の時代だね






←現代の地図に1600年前を任那の みなま にんな △ 左が百済 吉林省の現在の集安市には 好太王碑 下の后の字は間違ってるわ







その時代は 吉備国は どないだったんやろ 吉備津日子命が 吉備を抑えていたんやろか?

ヤマト政権に 徐々に侵食されて 

吉備は配下だったんやろうか?

百済の人が かなり 吉備には居たんだと思う



任那の辺りで 鉄がよく採れたと 各所に書いてある

岡山県も 鉄が採れたし・・・



任那 みなま にんな 岡山県みま さか 市 なんか 発音は似てるぞ



そんなことを 空想してる 岡山県あいだ郡 

みま さか 町 ならばら かみしゅく 東内誠



唐内と いう 苗字も みまさか には数軒ある 



任那と 百済は どうも 仲が良かったみたいやから



大阪城の 砲台に 刻んである 美作津山藩の 百済なにがし って 人の名前もある この職人が砲台を作ったとある

岡山県 と みなま にんな それらの地区は その昔から ご縁があったと思う



岡山 広島あたりの 吉備の国と 百済や 任那は 

かなり その昔 繋がっているという空想は的外れではない と思う



学問が 東内には 現在は まだ不足していて まだまだ 言い切れないが 

そのうちにもっと 詳しく書けるように調べたい





岡山県の人が みなま に 弥生式土器やら 

前方後円墳を持って行った ということも 考えられるじゃない



太平洋戦争後 日韓関係が悪くなるというような事で 

好太王碑の漢字の長文で書かれた内容は 大きな声では言い難い時代が続いたような感じもあるんかな?

倭人は 朝鮮半島のかなり奥の方までも 攻め込んだんだろう 現在の中国の領土のあたりまでも 倭人は攻め込んだ。



それが1600年も前のことだから。

10/12の 黒田如水 の戦国の歴史ドラマでも 朝鮮使節が 豊臣秀吉の全国統一の祝いに大阪城に きていた場面だった



この後 黒田は 関が原の合戦で 徳川と豊臣両軍が 戦ってへとへとになった時を待っていたんだ

この黒田は たぶん 吉備国の出自の人で 薬をその昔は爺さんが 売っていたというから 先祖の過去も

多少見えてくる



天下を取るチャンスを逃しはしたが 黒田官兵衛 は すごい 運も頭脳も なんというか

思慮分別が瞬時に出来る男だ 

この黒田の 出自は たぶん 赤穂市から 備前市 美作 周辺の出なの・・・ 



以下は東内とうない藤内 唐内の会社のHPリンク↓

http://tohnai.com/top_main.html

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