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東内社長BLOG

神憑りで 先の銅相場をあてちゃるつもりの 大阪港のトーナイ 出自は備前美作東内藤内

投稿日時:2014/10/25(土) 07:09

CNY円→JPY=17.68 まずまずじゃ けれどな~ 為替で助けられているだけか~

アメリカのS&P指数というのは 500 と数多い株が入っていて ダウ指数よりも よく米国景気が読める とも 言えて、

この指数もこの週の上昇幅は2013年以来の上げ幅だと報道されているから

アメリカの景気は良いんだよね~ そんな 中で 銅が303.8$程やろ・・・(安い)

あかん な~ 資源相場が弱過ぎや~ 

ああ すみませんkg単価でないと読みにくいな 6700$やや下辺りです 

よって為替の円安で仮定銅の計算は772円ほど

金曜日の株価予測は 外した 300円もは上がらなかった その分は来週の月曜日には上がると上がると思いますョ

エボラって 伝染病が脅威になってきているよね これが先進国に流行りだしたら

これも 困るよ 多分 株価などにも 大きく影響を出しかねない

戦争よりも 株価に影響するかも 知れない

戦争というか 紛争は 常に何処かで起っているが エボラのような大量には死なない 伝染病は やっぱり恐い

その昔 だったら 伝染病が蔓延して 人々が死んだり

朝廷の偉い御方も 死ぬ場面もあって それは 伝染病は恐がられた

なので 祈禱師は 祈ったんだ 24時間連続でも 祈ったと思う

祈祷する 家は 忌部氏 とか 中臣氏 とか 物部氏は どうなんじゃ 忌部氏と物部氏が どちらが古くから 日本におられたのかは まだ 僕には理解できていないのんだ

三輪山と 石上神宮は どちらが ふるくから あったんや?

物部氏は 3世紀には 肩野(交野市)  難波 東大阪市周辺 奈良 天理 などでも 勢力を持っていたんか?

前方後円墳・・・・



この2014年の10月 相場がぱっとしないから すぐに 歴史や古代史に行っちゃう傾向が強いんだ

一日中 相場の事ばかり考えていたら 頭が疲れるからじゃ



最後に じゃ を つける傾向の人は 四国とか 吉備 京都もじゃ を高貴な人がつけるんじゃ

どないなんじゃ 山口県や広島西部の人も 同じなんかいな?

唐から 来た先人が その周辺や 三重県の沿海部やらに 多いと思う

石川県あたりも 多いか その囲った 線内に 渡来系が多く住み着いたんだ



明治時代 以降の総理大臣なんかも 山口県 が 多い傾向やし



吉備国の岡山備前を中心に コンパスで くるっと巻いた ラインの中が 特に 弥生系渡来人 が多い

そんな感じがするよ

京都の祇園祭の 最上段につける ホコ 

その 元祖とも 言われる ごほこ(矛・楯)立ての

美作楢原神宿748番地 トーナイの25日 日記でした



廃金属売買TONAI トーナイ東内誠

http://tohnai.com/top_main.html



東内誠神社の由緒

藤内家書記如左是は當(当)国一の宮, 中山大神宮の初穂取に御座候。先年少之 内當 村に御鎭座成らせられ候よし, 申し傳(伝)え候。

則ち「初穂取の者共神宿に居る」と申し傳え候藤内と申す者先年(神の)御宿を申し候につき,

その規模(ほまれ・てがら)として子々孫々まで當国の内, 東六郡の夏秋両度の御初穂取に候。六郡の内‥‥‥。
 
矛 殿 藤内家にある神殿を云う。棟を別にして方二間半ばかり。

藤内家は古は五家、今は分かれて六家となる。

一宮社家説に云う。 昔 中山の社に神鉾あり。

その祭祀最も奥秘の神事とす。

世に叛臣ある時は則ち必ず此の祭を修す。

その法は石基を四方と中央に安して,各神鉾をその上に建て,これを五座の鉾石と云う。

嘉承二年丁亥十二月,対馬守源義親が出雲の国に在て謀叛の時,これを行うと云う



嘉承二年を 検索すると 西暦では1100年ごろの時代 「出雲国」を とうない が 藤原氏?の御指示で

武器を手にとり攻めたのかも知れんし 祈祷 神事をしただけかも 知れない



この英田郡史(美作国)では 矛殿 「中山太 では なくて 中山大神宮」 と なっている(平成の時代の東内 の東内誠メモ)

この西暦1100年の時代は 東内ではなく 藤内となっている 今よりも、900年前の時代



「世に叛臣あるとき」 がんしん とは 政権にたてつく 謀反のもの という 意味は東内誠 いくら無学でも読める

『藤内』とは 辞書で調べれば 【藤原氏の内舎人】 警護などと 殿のお世話をする手下という立場

今で言う 特攻隊長やな(とうない)
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東内五家 六家



夏秋二度初穂取六家


藤内日向   (受領の家)  
藤内源太郎
藤内長大夫       
藤内勘大夫   (受領の家)
藤内主計     
藤内三大夫



おそらく?東内誠の ワシの爺さんは 東内勘太夫(かんたゆう) だと 思う 



太夫とついたお墓もある

3代前の爺ちゃんも 勘 かん か、 甚太朗やから・・・

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■作陽誌(上)  昔,神始めて英田(多)郡楢原村に現わる。

藤内の祖菰(コモ)を採り?(チマキ)を作りて之を奉る。既にして神苫田郡霧山に入る。



■作陽誌(下)

山陽道美作記に云う人皇四十二代 文武天皇慶雲三年丙午五月上旬(二の午の日と云う)英田郡楢原邑東内の宅に中山大神化し来り二十日許御逗留同年九月二十一日苫南郡霧山と云所に入玉ふ ‥云々‥。
一 宮社記   昔 神始現于英多郡楢原邑 藤内祖採菰作?奉之 既而神入苫田郡霧山‥‥。



■東内誠メモ

「もんむ・てんのう の時代」とは・・・

文武天皇【もんむてんのう】

7―8世紀の天皇。草壁皇子の子。母は元明天皇。天武直系として697年持統天皇譲位により即位,707年まで在位。

藤原不比等(ふひと)の娘宮子(みやこ)を夫人とし,その治世は不比等の勢力が強かった

吉備・岡山県では 備前から 美作国を分割なされた時代背景である。東内誠メモ。


■津山史(1) 中山の神が最初に現れるのは英田郡楢原においてである。

神は白馬にまたがり,青木の枝を鞭にして現れたといわれる。

この神を斎き祭ったのが、楢原の東内氏であり,

東内氏は蒋(まこも)をとり,「ちまき」をととのえて神に供えたといわれている。

それより以後 東内氏は 東作州の初穂を集め,

十一月の二の午(うま)の日に荷前(のさき)祭り

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