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東内社長BLOG

東(藤)内誠の古代史の勉強ノート 山背国 秦氏は九州から瀬戸内にも多く住みつき 渡来人でも力があった

投稿日時:2015/01/19(月) 06:41

1300年程も前の時代:日本と中国の関係の勉強

以下は200文字ほどウイキから借用する東内誠

******

玄宗が即位する前の702年に日本から派遣された遣唐使の中に僧侶・弁正がいた。玄宗と弁正は囲碁を通じて親しくなった。その後、弁正は唐において病没するが、唐で生まれた息子の秦朝元が遣唐使の一員として唐に戻った際には玄宗は特に手厚くもてなしたと言う。

玄宗は日本からの遣唐使に対しては好意的な対応を行っており、日唐関係は安定した時代を迎えた。

その背景として玄宗が弁正を介して日本に対して好意的な姿勢を抱いたからとする見方がある



***以上借用した

玄宗は 唐の皇帝だ 王様です



弁正というのは 日本に幾度となく 

其れまでに渡来した

渡来人の偉い人でして 秦氏だ 



その日本人の秦氏と唐の王様が 将棋をしたというのだから 

その時代 唐と日本は実に友好親善ムードで一杯だった



秦氏は 中国大陸にも太いパイプを持っていた

西暦700年過ぎの頃

その時代でもグローバルな情報と知識 言葉も数ヶ国語は話したんだろう と思う



秦氏は遣唐使から 帰国しても 天皇からも破格の扱いを受けたと想像する それは 中華の王と将棋をする仲だから そうなる・・・



キビ国アイタ郡の唐内 とうない さんも その時代に 唐より渡来したかも知れない 

同じ吉備国の 藤内 とうない は もっとその時代よりも 以前に僕の先祖は渡来していた と 信じているけれど・・・

その時代かも 知れないし それ以前かも 知れない



それ以前だと思う 何故かというと吉備津日子は馬に乗って僕の先祖の所に 神が示現したというストーリーなので 吉備津日子と言うたら もっと それよりも3~400年以上も前の時代になるので そうなる



秦氏 謎の一族だ

九州にも多い 瀬戸内にも多い 淀川流域にも多い

淀川の事を どうも 昔は 山背川と呼んだらしい

山背 京都周辺のことかな~



京都に太秦映画村があるじゃない

あの地方が 秦氏の中心だったみたいだ

あの辺には 僕の岡山県の実家のお寺の本家本元もある仁和寺だな 寝屋川市の仁和寺はニワジと読むが ここはニンナジと読む 寝屋川市も勿論 秦氏が かなり関係した場所だと思う



 毎日 僕も 摂津三島の淀川大橋を渡って 寝屋川市の仁和寺を抜けて 守口市の阪神高速を 大阪港に向うが

秦氏の 活躍した場所に 今でも 住まわせて貰ってるご縁だ



平安京に遷都する以前から どうも 秦氏の一族は 

この太秦付近に多く住んだみたいだ

50代 桓武天皇 なんか 強いご縁があったみたいだ

京都伏見稲荷大社も 秦氏だと思う

広隆寺もそうだ

ここらから 全国に神社が大きく広がったんかな?



秦氏は秦の始皇帝の末裔とも噂されている・・・

これは 噂だけかも知れないが

しかし 最初に書いた遣唐使の秦氏が 中国の皇帝と将棋をしたという外国の書物からの 証拠もあるし

中国の皇帝とも 秦氏は 仲良くやれる実力があった



秦氏の出で 最近の偉い人と言うたら 羽田 元総理なんかも その血筋のようです 三木 元 総理もそうかな~ 良くは解からないが そうみたいだ



岡山県美作市にも 秦氏は来られた これも西暦768年かな~ 多分 来た・・・藤原種継



今でも 備前の港の辺りから 山に入る周辺の山のふもとに ハタ 系の苗字や 墓石は数多く見かける

播磨にも 当然多い 播州とミマサカ 備前は もう境目というのは ないような 感じなので そうなる

赤穂市は 備前 といっても イイくらいだと思うな ワシ



秦氏 興味が沸いてくる 一族だ 渡来人



銅相場の話題を目指して このブログにきて下さる方が

大いのに 古代史 だ すみません

仮定銅の計算は6時半現在730円 1/19



http://www.tohnai.com/top_main.html

上記リンクは 僕の本職のスクラップ屋経営のHP 東内誠日々更新中

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