• ホーム
  • ブログ
  • 日韓関係を古代史から考えると 今日は西暦400年の頃 仁徳の時代 鉄銅矛たてトーナイ

GOO日々更新 東内誠 相場 歴史などのブログ

日韓関係を古代史から考えると 今日は西暦400年の頃 仁徳の時代 鉄銅矛たてトーナイ

投稿日時:2015/06/10(水) 06:16

6/10早朝 日経平均が大きく下げて 痛んだ朝 銅相場は変わらずで5970$周辺と6000$を割れている

上海銅相場は43480元で×20.02=87万円 日本の銅79万円



一昨日の夜は 上方温泉で諸外国の人達と ワイワイお喋りしながら晩飯を食べていたら そこは 僕が何時も座る指定席なのですが その日も 韓国人の団体の中高年の おばちゃんたちの団体 数十名の観光者の人達ばっかりに囲まれた

お歳は どうやろう60歳前後くらいかな~



平均的に 皆さん お綺麗な顔立ちで まったく日本人と変わらないような顔だ 大きな声で喋ったりはしていない 皆さんお静かにお食事されている このツアーによく出くわす



どうなんやろ 日本人と朝鮮半島の人達 どこら辺が顔立ちなどが 違うんというんかな~ ワシには見分けがつかない



韓国の女性の大統領が まあ 日本の悪口ばかり おっしゃられるので 最近 韓国へのイメージは悪いのが日本人



そんでも 大統領があんなに 日本を悪く言うのに 韓国からの団体客は このところも 多い感じだ けっこう来てる

円安のせいなのか



心底から 韓国の人々が 日本人が嫌いならば こんなに多くの人が来日しないだろう と 僕は思う



僕の先祖も 2000数百年前の時代に 多分 高句麗・新羅を経由し 任那あたりから 船でやってきたかも 知れない

その前は 多分 東内太 と 僕の神社は名乗っているので 呉の国を 追われて 大陸から 渡来した系じゃあ ないかと思ってる 

太 と 名づけているのは 多分 そうだと思う

中山太 と 名乗ってる系統は 呉の国からの系統じゃないかと空想している



まあ それでも 高句麗 新羅 百済 任那 と なんらかの ご縁はあるだろうね

現在の日本人の血に どうや20%くらいは 大陸の先っぽの半島の人達のご先祖の血も混ざっているんだよ

(中山太東内誠祠)



ちなみに 以下は 呉の時代よりも 700年以上も後の新しい時代にはなるが 西暦400年のことを 資料を探して書いてみた



http://tohnai.com/top_main.html

以下は西暦400年前後の倭国と 新羅 百済 高句麗



西暦400年頃の時代を専門の人が纏めておられるネットの文章の一部 をコピーして記録 トーナイの東内誠 中山太藤内

好太王 とは 高句麗の石の文章に残されている王様

この時代 仁徳天皇や応神天皇の時代のこと

この歴史の先生のような人は 日本書紀 中国史 好太王碑文 高句麗本紀 百済本紀 新羅本紀を調べられて書いておられる

トーナイの現在仕事をしている 大阪府 三島 淀川の付近の高槻市の事では402年に 現在の淀川に茨田堤築造を行った

(仁徳11年)

これは 新羅の人だと 書いてある

新羅の土木技術で淀川の土手を仁徳の時代に

新羅の人が土手造りに働いた



此の時に 高麗の人は 鉄の盾(たて)と鉄の的を 

仁徳天皇に奉った とある

そして 百済も同年に 使臣を倭国に送り 大きな珠を求めた(百済本紀)



好太王としては作戦の失敗であった。そのまま倭国軍を追い詰めて滅ぼしてしまおうと思った矢先、本国からとんでもない情報が寄せられた。



***高句麗と燕との戦い***

好太王が5万もの大軍を朝鮮半島南端部に集結させていることを知った後燕の盛は、朝貢の態度が無礼であることを口実として、高句麗の背後を突いて遼東を占領してしまったのである。

後燕は内紛と北魏との戦いで疲弊して、398年に小国に転落しており、好太王としては全くの無警戒であった。後燕も勢力の回復を図るためにこのチャンスを逃さなかったのである。後燕は兵3万を率いて、高句麗の新城、南蘇城を落としたのである。

好太王は倭国軍との戦いの最中であったが、戦いを中断して帰らざるを得なかった。高句麗軍はたちまち退却していった。後燕が遼東を襲撃するタイミングはあまりにも絶妙であり、あるいはこれは仁徳天皇の作戦であった



***401年***

課役を命じる(日本書紀・仁徳10)
慕容盛が禁軍の反乱により殺害された。高句麗・燕の戦いで燕は国力消耗(中国)
高句麗に人質として行っていた実聖が返ってきた。(新羅本紀)

高句麗は燕との一進一退の戦いが継続され、高句麗は国力を消耗した。新羅の支援ができず、401年、人質実聖を新羅に返したのである。

高句麗が燕との戦いに明け暮れるようになり、朝鮮半島に出向いていた倭国軍は引き揚げることとなった。仁徳天皇はその様子みて再び課役を課したのである。

一時的平和



***402年***
・ 新羅人朝貢する。

・ 難波堀江、茨田堤築造(日本書紀・仁徳11)。

・ 山城に大溝掘る。

・ 高麗国鉄の盾、鉄の的を奉る(日本書紀・仁徳12)



王は兵を派遣して燕の宿軍城を攻めた(高句麗本紀)

五月、使臣を倭国に遣り、大珠を求めた。(百済本紀)
・国と国交を結び、奈勿王の王子・未斯欣を人質とした。(新羅本紀)



高句麗の支援をなくした新羅は、高句麗にひと泡吹かせた倭国に恐れをなし、

新羅本紀に、402年、倭国と国交を結び、奈勿王の王子・未斯欣を人質として送ってきた。



百済本紀に百済も同じ年、使臣を倭国に遣り、大珠を求めた



これらを読むと 倭国は西暦402年 隣国よりは ビビッて 倭国を持ち上げているのか

西暦400年 わが国は近隣の国々を怖がらせていた感じ



仁徳天皇は 凄かったんだ

そんで 仁徳天皇の 側室が 岡山県のキビの女じゃ

キビの女が 恋しくてな 正室の目を盗んで キビにまで 会いに来ている



キビと言うても広いので 詳しくは 備前やな

みまさか と 言ってもよいと空想するのが 美作が里の

大阪港のUSJ前の トーナイ その昔 吉備津宮系



大藤内 トーナイ ワケの犬 中山太神宮の東内誠 

五矛盾の祠を維持するモノ



402年では覚えにくいので 西暦400年前後としよう



仁徳天皇 茨田堤の工事 新羅の渡来人が工事をした

そんで 淀川の水の流れも変わったのではないか



ほんなら 此の辺りの 韓人 漢人は 新羅の秦氏系ということになるのか



古代史瞑想 大阪港と高槻市三島 西面南4のトーナイ

http://tohnai.com/top_main.html

<< 2024年11月  >>

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

アーカイブ

ブログテーマ

ブログ最新記事