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東内社長BLOG

銅相場一夜に急落309 + 吉備の古代史のお勉強 東内 和気氏三野氏吉備津彦 雄略天皇 倭の五王

投稿日時:2016/03/09(水) 04:35

3月8日発表された支那の輸出入統計、非常に悪い 輸出が特に悪化し 昨年比17.8%減少した 輸入も13.8%落ちた 輸入は昨年比で原料価格 原油価格が下がったことも影響が大きい   そんな中で 上海総合指数は 連日上げているので 此れは 政府の株式 買い支えだろう   全人代の最中という事もある   また広東省だったか 最低賃金を上げることを取りやめた 賃金の上昇が ここ数年 あまりにも大き過ぎれば加工貿易は廃れる その逆に このところ タイとかインドネシアの株価には 投資家が資金を戻してきている傾向という 末端の 労働者の給料を高くし過ぎては 中国も厳しい   そえれでも 支那の貿易収支は 黒字が大きい しかし外貨準備金は減少の一途を辿っているという統計がでていて この外貨準備の減少は $建ての債権を中国人が 急いで減らした ということが 可能性 高いらしい   銅の相場で言うと この状況で 上海銅相場が37000元と いうことになる   3/9朝  4時 上海銅先物 大きく下げた1000元下げ  NY銅 4839$   http://tohnai.com/top_main.html   以下は 超古代史の勉強 トーナイ 吉備のモノ   吉備の歴史の不思議  三野国国造の始祖 吉備津の宮の 大森氏 後の 大守氏 その何代か 後 王藤内 大藤内 その後 現在の大守氏(社家)   ■三野国造(吉備)とは・・・ みぬのくにのみやつこ【国造】


三野国造(吉備)
三野国造とは三野国(現・岡山県岡山市、加賀郡周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると応神天皇(15代)の時代に弟彦命(おとひこのみこと)国造を定めたことに始まるとされる。

日本書紀によると吉備津彦命の後裔であり応神天皇の皇妃・兄媛(えひめ)の兄である御友別命(みともわけのみこと)の末子・弟彦が三野国を分与されて三野臣の祖となったとされる。 後の雄略天皇崩御の479年、後継を巡る星川皇子の変によって吉備氏族に反乱が起こり、鎮圧後は吉備氏の権力は消滅したという。 三野臣氏は備前一宮である吉備津神社を奉斎したことから後に 社家・大森氏(後に大守氏に改姓)を輩出   ある時期 三野王は 朝鮮半島にも出兵していた とトーナイは考えている   理由は・・・ 雄略天皇は吉備上道臣田狭が自分の妻・稚媛の美しさを自慢するのを聞いて、田狭を任那の国司として派遣した後で、稚媛を奪って妃とした   雄略ウイキでは・・・   対外的には、雄略天皇8年2月に日本府軍が高句麗を破り9年5月には新羅に攻め込んだが、将軍の紀小弓が戦死してしまい敗走したと言う(雄略天皇8年を機械的に西暦に換算すると464年となるが、『三国史記』新羅本紀によれば倭人462年(慈悲麻立干5年)5月に新羅の活開城を攻め落とし、463年(慈悲麻立干6年)2月にも侵入したが、最終的に新羅が打ち破ったと記載されている[1])。 20年に高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌21年、雄略大王は任那から久麻那利の地を百済に与えて復興させたという(雄略天皇20年を機械的に西暦に換算すると476年となるが、『三国史記』高句麗本紀・百済本紀によれば、475年(高句麗長壽王63年・百済蓋鹵王21年)9月に高句麗に都を攻め落とされ王は殺され、同年熊津に遷都している[2])。 この他、呉国()から手工業者・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、また、分散していた秦民(秦氏の民)の統率を強化して養蚕業を奨励したことも知られる。 479年4月、百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子未多王に筑紫の兵500をつけて帰国させ、東城王として即位させた。 兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。   倭の五王 武 ワカタケル王子 大王 雄略天皇 吉備の人は 雄略の時代のことは語りたがらない・・・ 雄略が 東漢氏(やまとのあや し)を派遣して 地方の有力豪族を抑えた か? 側近の職のモノなら 大伴 物部 物部は 武器を造る技能のモノ か?   東漢氏(やまとのあや し) 東漢氏は、先来の秦氏と同じく漢土由来の製鉄技術をもたらしたと考えられている。また、記紀等の記録から土木建築技術や織物の技術者が居た事を窺い知れる。東漢氏の一族に東文氏があり、7世紀から8世紀頃には内蔵省大蔵省などの官人を輩出している。 また、東漢氏は軍事力にも秀で、蘇我氏の門衛や宮廷の警護などを担当している。 『肥前国風土記』によれば、602年新羅征討計画の際には兵器の製作を担当し。 崇峻天皇暗殺の際にも東漢氏の東漢駒(東漢直駒)が暗殺の実行役となっており、蘇我氏の与党であったが、壬申の乱の際には、蘇我氏と袂を分かって生き残り、奈良時代以降も武人を輩出し平安時代初期には蝦夷征討で活躍した坂上氏坂上苅田麻呂・田村麻呂親子が登場する    東内誠 古代史メモ

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