• ホーム
  • ブログ
  • 卑鉄いやしい金属を平清盛前後の時代でも扱うトーナイ王藤内 大藤内 倭寇は船も巧みに操る 命は捨て身の一八

東内社長BLOG

卑鉄いやしい金属を平清盛前後の時代でも扱うトーナイ王藤内 大藤内 倭寇は船も巧みに操る 命は捨て身の一八

投稿日時:2016/07/16(土) 06:03

海外卑鉄相場(ひ鉄のひ は 卑弥呼のヒ) 銅4900 アルミ1665 ニッケル10210 鉛1866 7月16日3時現在では 鉄鉱石56.11$ 為替は105.56円 人民元→円=15.74 上海銅38190元 この1週間では 銅は高安300$(6%幅程)の動き 海外のニッケル価格がココ半年で最高値と上がったが 国内ステンレス屑に上る気配はない アルミも海外はココ一年では最高値だが 国内アルミ屑は上る気配は無い 鉛の海外相場はここ一年では最高値だが 廃バッテリの買い取り相場は悪い 韓国向けの輸出価格が冴えない為です 国内 金買取価格は安くも高くもない(海外金相場は今 高い) トーナイの先週の納品価格は4500円前後だったかで少し売った この週も少し納品した 中国では 香港経由で金の輸入量が増えていると聞く 人民元の先安を意識したものだろうか?   金銀銅など含有した基板などの屑スクラップも買取りますので トーナイ(電話0726 78 1112)にお電話下さい    携帯電話の基板なども買取をしていますので・・・ 勿論、国内以外でも 海外の製錬の仲間もおります 携帯電話は そのまんまでも買います   10数年前は 香港へ携帯を〒で送っていました 携帯はけっこう歴史の深いトーナイです(広州市 シンセン市などでショップをやらせていた)   今から700年ほど前の トーナイは 吉備津の宮を寄進した 王藤内 大藤内と言う者も 岡山県の瀬戸内に住んでいた この人も 宋との密貿易で 大もうけした   船を操って 中国大陸に出かけていっていた そうそう 平清盛の時代に近い と思う   倭寇(わこう)とも 呼ばれたかも知れない   大藤内の絵巻は 一遍の絵巻でも 描かれていまして 歴史の教科書の表紙の絵にもなっている   一遍上人についていった吉備津の宮の女を追いかけて 吉備津の宮の 藤内が 大刀を一遍にカザシテいる場面は有名じゃ まあ、とにかく 一遍上人に刀を振りかざしている武将は 藤内という吉備津の宮の者です   岡山県の大きな お宮には藤内は けっこう関係してるんじゃ   この一遍の絵巻には 公家さんのような人も描かれているし ハンセン病の人達も 描かれていますのじゃ   いろんな 階層の人々 700年前の絵巻です   東京国立博物館所蔵の 国宝の 一遍絵巻でネットでも見れる   700年も前の時代では 商売人も武力を多少は持っていないと 海外へは 商いにいけなかった と思ます いまでもさ 中国は恐いから・・・   20数年前 ワシは 上海で籠のようなところに 入れられて 動物園の見世物のサルのような状態で3時間以上も監禁されたこともあって それは経験している  監禁されたら 恐いよ~   20歳前後の時も これは国内だけれど 数時間 監禁された これも恐かったが 恐いという態度をしたら ヤラレル・・し 踏ん張った   喉に 刃先を付けられれば 恐怖感にシビレルよ~ 吉備の国は 兵庫県加古川の西岸から 岡山 広島の東部までが 旧 吉備の国でして その辺りは 昭和の時代もヤバかった   そんな事もあって 21.8歳で 大阪の淀川周辺に 吉備にも帰られない状況になり・・・大阪に たどり着いて   屑屋さんの業界に入れてもらってからも うーん 慣れてたから 過ごし易かったかな~   そんでも 大阪も恐いから 最初の頃は 軽トラックに乗っててさ 運転席の後ろには すぐに 鉈を 解体用で常備しとった   この 鉈はすごく便利がよくて 湯沸かし器が屑で出たら すぐにその場で 鉈を使ってさ 銅を取り出すんじゃ・・ ネジを2本 鉈で飛ばして そのフタを空けて 銅の根っこの菅の場所をぶった切る と 銅が採れた   銅が採れると 運転席の屋根の鉄の籠に放り込む・・・   その21歳 22歳の頃から その時代でも レントゲンのフイルムなども集めたり 車の電池も集めて廻った トラックのバッテリは その頃 けっこう重くて これを狙って 地方へも買取りというか ゼロ円回収というか 集めてまわった 姫路から 鳥取県に 行き来する 中国山地の坂はきつくて バッテリを過積載でトラックが 坂 登るにしんどかった (下りの坂も恐いのじゃ)   その時代でも 鉛の自動車バッテリ50円/kgほどで売れた   銀は その時代 今より もっと高かったよ 長女の鈴香は 横に乗っていた 現在では38歳にもなったか   20歳代の時は 土地もなく貯める場所もないので 気分によっては その日は さお竹を売りに 廻る さお竹~ さお竹 メーカーから 直接販売に来ております って マイクで 喋り捲って・・・ ワシな 行商人の 売るの買うのが すごく 旨いんじゃ さお竹なら 日に 10万円は売ってた と記憶しとる   1人のオバちゃんが買うやろ 近所にも声をかけてもらって 皆あつまって貰って 全員に買って貰うと 一箇所で多く売れるし・・ m500-1000円で売っていたん・・・   このさお竹 10年使うと 3650日で割れば 日に1円以下や って 若造が言うので 客も アホウになってくれてたかも知れんな~ とにかく よく売れたわ ポケットに千円札を ねじこんで 帰り道に なんぼになったか計算するんや   20歳代前半 その日 暮らし 住民票 無し 弁当もち 親子3人 人から見たら 乞食同然    24歳頃になってきたら 大阪にきて屑商で知り合った 仲間4人でグループを作り 今度は 行商人を全国から募集して仕事をしてもらい始めた 最高人数50人も集った 月間1000トン集荷の目標は なかなか年数が掛かった   しかし その組織も 仲間と行く道が違うと感じて 30歳手前で別れた 30歳手前では 借家の自宅でリサイクルショップ兼 古本屋なども やって 昼夜 稼いだ 名簿情報屋 便利屋 走りの時代のファミコンソフトの売買なども やってた 30歳前後やな~30年も前か   52歳までは 調子よく行ってたと思うが 52歳の時に リーマンショックがきてから 運気が良くない   しかし 一八 いっぱち で 過ごしてきたが 勝つときも負ける時もある 此の性格 サラリーマンは出来んし   今朝は また変な日記になってしもうた 年に 何度かは 過去を回想する傾向がある 走馬灯のように 脳みそのなかで 50年ほどが出てくるのじゃ   ああ 最後 語尾に じゃ と付けるのは 吉備の瀬戸内のモノの癖や   でもな こんな事を書いても 恥とは思わんな ワシは 21.8歳からは 恐喝したり 盗人どろぼう したり して暮らしてきているワケではないし   一応 22歳から以降は 数10名の ボス猿としても けっこうに真面目にやってきていると思うてる・・・ そんで ゴミ屑 を集めて貰って それを外貨にも 換えとるし 雇用も 多少でも生んどる http://tohnai.com/top_main.html 自己中のブログ 東内 こと 藤内トーナイ 唐内   一遍上人 絵巻の 吉備津の宮の 武将は 嘘じゃないよ 藤内トーナイ 700年ほども 前の時代の もの その時代は 武将とは 言わないかも知れないよね 武器を持った者 船を操るモノ 吉備の宮の 宮大工も 藤内がやったと思う 船大工が できれば 宮大工も可能だろう   ほんでな 藤内は その時代 鉄の破片のような物を輸入していたと思う 吉備は 鉄の加工も 上手だった 勿論 瀬戸物は 吉備が元祖やけれど 備前焼きが 全国に伝わっていったし 円筒埴輪の 元祖は 吉備 備前の石上神宮の周辺にも 土師氏が多く住んでいた なので 岡山県の古墳も大きいのじゃ   土師氏は 土木 建築技術も 持っていたと思うで ほんま        

<< 2024年11月  >>

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

アーカイブ

ブログ最新記事