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東内社長BLOG

摂津の国 三島に藤原氏始祖が別邸 その他では継体天皇御陵 阿武山の下辺りにもトーナイも基地有り 建国記念日なら日本の歴史も勉強しなきゃ

投稿日時:2014/02/11(火) 06:35

大阪府高槻市 36年前に 元、吉備国
その後に美作国
楢原の上 神宿のトーナイ とうないまこと 
私は 行き先を失い里を逃げるようにして出て
宛ても無く 放浪の旅 その途中で  流れ付いてきた土地この北摂 三島の地に 自分の意思以外の力でなんか吸い寄せられてきているように 感じるのです
 
バタ屋稼業36年目21歳から流れ者の とうない まこと
10歳代は愚連隊ではないですが まともとは言えなかった
全く 自らはそうは思っていないのですが 廻りはそう見ていたかも知れない 
過去を断ち切ろうとして 旅に出たの・・・
そして 何のご縁も無い場所で 何の知識も無いのに 
チャレンジは したかったの ですが それは本能的に高槻市 三島の地が呼び寄せてくれたのかもと今では考えています
この高槻市 第26代継体天皇の御陵もあるの
20歳代の頃 まったく 何も知らずでしたので そんな事も知識がある訳もなかったのですがな
また この三島の地には藤原氏の初代がこの地にお眠りになっているかも可能性も高い土地みたいである
 
ワシの リサイクルセンターの借地の場所の1つに 
阿武山の下に
奈佐原(なさはら)リサイクルセンターがあってね そこの辺りは 阿武山 阿武野とも 言う場所
 
多分 この地で 藤原氏の初代は お眠りになっている
 
阿武山古墳というのが あるが 
どうなのでしょう 西暦で言えば 
669
中臣鎌足(なかとみ が その後 藤原姓になる)は
死没したとある
 
この藤原に とうない 藤内 (その後に何時の時代か解からないが 東内に漢字が変わったようですが)は 
仕えたとある とうない は 藤原氏の雑役係りです
 
この阿武山の その昔からの大地主さんに 
この流れ者の トーナイのリサイクルセンターは 
何でか 農協幹部の推薦というか 
そういったご縁でなのか大変お安いお家賃でここ十年ほど
お借りしている 450坪ほどの広さなの
 
これは いにしえ[] からの 何かのご縁が 引き寄せて下さっているようにも感じるのです
 
また三島鴨 前の 息子と長女名義の土地建屋も 何かのご縁で 買って その後 すぐ前の 三島鴨神社とも ご縁を頂戴しているし 
何のご縁もなかった 三島や高槻市に 古くからの住んでおられる方々に 
トーナイは 特によくして頂ける傾向が強いと感じる場所なの 摂津の国の 三島 高槻市
ご縁も ないのに ワシの小さな建屋には 
高槻市JA本店のキャッシュコーナーが建屋の中に組み込まれているのですから 不思議なご縁です
ご縁には 感謝をしていまして 摂津の国
高槻市 三島地区に この先 子孫までも 住み暮らしていこうと覚悟しておりまして 子や孫も この地に留まって貰いたいとも 希望的には考えているの
初代では なかなか 信頼の大きなモノは得る事は できなくても 代を重ねるうちに そのうちに 地元民とも 仲良くなれると考えている
この地は 元もと 藤原系の 方々が 1400年ほど前から 多く住み着いたのかも 知れないですよね
継体天皇が 西暦500年の前半にご活躍されたのですから
その時代からは おおよそ1500年後が 現代ですよね
 
なかとみのかまたり=ふじわらのかまたり 藤原氏の祖
蘇我入鹿(そがのいるか)と ともに 秀才とされた。
『日本書紀』によると644年(皇極天皇3年)に
中臣氏の家業であった 祭官に就くことを求められたが、鎌足(かまたり)は 固辞(こじ 断り)して
摂津国三島(せっつのくに・みしま)の別邸(べってい)に退いた。
 
----と あるのんじゃな~
 
644年には 貴族であったわけだよね
しかし その時代は まだ 登りつめておられたということでは ないようなのよね
 
しかしさ 日本書紀も 藤原の殿のお考えで 編集する者に
ご指示をだされたとも 思えるの
 
とうない は あまり頭が良くないので 時代の整理が 
なかなか 出来ないね 難しいよ
 
ただ 摂津に別邸をお持ちで [なかとみのかまたり] 様が
お住まいを しておられた事は史実のようです
西暦650年頃
なので 今から1360年ほども 前の時代の日本か
この50年後 辺りの時代に 吉備国は 分国という 流れか 
吉備国は 現在の岡山県中心の古代のかなり 大きな国のことですよ
 
【内舎人】うねどり と読みます・・・長いので省略したら
武士が任ぜられることが多くなると、その本姓と
「内舎人」を略した呼称が使われる。
 
源氏で内舎人に任ぜられた者は源内
平氏ならば平内
藤内
 
橘氏は吉内
紀氏は喜内
清原氏は清内
伴氏は伴内のごとくである。
 
後には、実際の内舎人職や本姓に関わらず名乗られるようになった
****まあ とにかく ワシは もののけ の 血かも しれないが 藤原氏の雑役をやってきた血の流れではあると思う
 
とにかく ワシの家は 多分 1300年前に 菊のご紋のマークの 金属 を頂戴している
そして それを後生大事に 後代へと 維持はしてきてる訳じゃから 
くそが付くほど 真面目で忠実な 血の流れはあると 思うています
忠君愛国 だよ 
 
しかし とにかく 高槻市 茨木市 三島地区 には
継体天皇 なかとみのかまたり などの ご縁の場所には間違いない
 
その時代の 古地図をみれば 沼というか 海が かなり広がっていて 今の現在では 陸地でも その時代は 浅瀬というか 川が広かった というか そんな感じだった と古い地図を見れば でています
 
海外から 新しい 聖地を新天地を 求めて きた方々も 淀川に沿って 渡来してきたのだろうとも 空想する訳です
 
 
この摂津の地 というのは 奈良方面にも 京都などにも 行くにも 要所 重要な場所 であったと思う
ここを通らねば 奈良方面にも 行けない ここは戦略的にも 重要な土地である
 
歴史の ど素人が おかしな空想をするな と 
お笑い下さいね アホ なので バタ屋トーナイ
しかし あほやけども 発想空想は けっこう豊かなのじゃ
 
まあ あほやから 屑屋の職業を選んだということも ある
 
『来世は地獄でゴミ漁り』
宗教を改宗すれば  そんなことに なるぞ
--など と 脅すような 宗教も あるらしいの
しかし ゴミアサリは ワシらの職業を イメージしますので
そんな言葉は 宗教をされる方は 使用しないで下さいね
 
ゴミをわし 循環させて 資源やエネルギーの浪費を少しでも 少なくしようと 日々 ワシらの業界は 努力しているので
来世では 私の言う事を聞かねば 
ゴミ屑拾いの乞食の業に堕ちる 
というような 言葉は 
絶対に ワシは許したらアカンと思うの
 
昨日 なにかの ワシの調査で ひっかかってきた
この言葉 頭に こびりつく言葉じゃ
 
まあ しかし どんなに 舐められようとも この仕事がワシには 適任と思って邁進しているのでな
今日も 頑張る つもり
この先も この 屑屋お払い 循環型推進稼業で行く
 
ドアホ 
ケガレル と思うならば 動物の肉 食するな
 
自動車に乗っても 公害拡散になるので自動車にも乗るな
そうなる
 
穢れたらば 禊を したら 祓える
お年寄りの 下の世話をしたら 手が汚れる 
汚れを嫌うほうが 精神が まともでは ない
 
ただ 日本人は ヨゴレを 外には 見せないような努力を日ごろから していなければ ならない
 
2014年 2/11朝 今日も切れたようなブログを書いてるよね とても 切れているのが バタ屋トーナイ しかし噛み付いたり は決して 味方には しないのでご安心を願います
 
ダウは夜中に下げていましたが 戻しましたね 今夜に
FRB新議長の 演説があるのかな 期待したい
緩和継続推進派と 聞いているし
米国の緩和は 長いほうが エエですから
資源が買われますのでな
仮定計算の銅は775円付近
ピカ銅の仕入 大口は 725円 ほどで 仕入れましょうか
 
バタ屋 東内誠(藤内 とうない)の会社のホームページは↓
 イメージ 1
屑関連の仕事がありましたらば 
お気軽にお申し付けください
関西一円 量があれば お伺いします
工場の解体 重量物の運搬 搬出作業
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電話は072-678-1112 (代表)
 
【諏訪大社 藤内 とうない遺跡で検索したら】
【他人様の物を 少し コピー『』↓】
 
藤は産鉄のキーワードか

中山神が美作国楢原邑神宿に初めて示現したとき,
触媒的役割りを 果たしたのが
「とうない東内/藤内」氏であった。
藤内氏は菰を刈って
チマキを作り神を饗応したといい,
その功から以後 
明治初年まで美作東半国の
初穂料を徴収し,
中山神社に納める 職能を担うこととなる。
 
中山神の古代金属生産とのつながりや,楢原地域の産銅・産鉄の可能性の高いことを指摘したところでもある。
また,フジにかかわる伝承として特異な感じのものが, 出雲と播磨の両国に残っている。 いずれも鉄産にからむもののようで, まずは出雲の話からかいつまんで述べておきたい。

出雲のとうない(藤内)

柳原大納言なにがしが勅使として出雲大社へ下向のみぎり, その警護役のものに
藤内某というものがあった。
能義郡布部というところに至り, 宿泊した長者の家で近辺(比田)に巣くう魔物の話耳にし, 大納言の命により 藤内が退治することになる。 山王権現の使いである猿の案内でめでたく化物を打ち取るが, 頭は人のようで 白髪三尺あまり, 四足は狼・尾は牛に似て,前身黄色の毛に覆われていたという。
 藤内はこの地に留まり, 比田の山麓に宮を建てて鎮守とした。 その後藤内の子孫は四十数代続いて今日に至り, いま田辺の姓を名乗っているという。  
(原話:田辺善明/再話:小汀松之進)
以上 他人様原稿からの一部コピー
 
以下は 私の文書です 
ウィ鬼ペテァからの
藤内(何時の時代からか東内)は
藤原氏 私的 家来というか 雑役係りで
警護 ご主人様の旅の先までも警備 あらゆる
雑役などの業務
行けと 言われれば 皆殺し にも行く お役目 である

藤内

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤内(とうない、ふじうち)
日本の姓のひとつ。
日本の古代から近世までの貴族である藤原氏 
任ぜられた内舎人 を藤内呼称した。
血や 汚れ仕事も 命じられれば 行くのんじゃ
 なんか ワシの体内に 多分に その血は
感じる所が あります
時代によっては 穢れから 差別を受けた時代もあったかも 知れません 
しかし  そんな事には 東内は 感知しない
藤原王の 言われる事には 忠実に番犬の如く
働いたのですから 戦士/雑役の血筋には誇を持ちたい
王が その地に留まり 番をせい と おうせつかれば
1300年間でも 従順に 従う者なり 藤内 東内
千数百年も過去から 武器を持って警護させて戴いた
藤原系の おえらい方が このつたない文章を
ご覧下されば
トーナイを覚えて おいてくださいまして
今 ワシ グローバルなゴミの循環型を進めたいのです
何か お役に立ちます仕事をしたい
0120 535319が連絡先でございます
 

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