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五矛たて維持管理中の子孫 藤内 ミマ サカ 今日は楯築遺跡とウラ/吉備津彦

投稿日時:2015/02/09(月) 06:44

楯築遺跡 たてつき遺跡と読む 五矛たて との 関係は証明できないが 弥生時代の墓なので 古墳時代よりも少し 以前からの古墳というか初期の古墳 というか墳丘墓

西暦で言うと 170年頃から 250年頃になるのかな~

これは岡山平野にあって なんか5つの巨石を縦に立ててもいるみたいだ

チュウザンの付近の場所になるんかな~一度立ち寄ってみたい

古墳時代が来る前から キビの国は大きな力の王が存在したということを証明している

特殊器台 という んのか 壺のでっかいもの この壺のようなモノが 埴輪の原型とも言われているようだ

奈良県天理市の櫛山(くしやま)古墳(造られたのは楯築より100年後)の この後に この特殊器台が奈良県でも 使われている

まあ とにかく古墳時代に先駆けてできた巨大な 墳丘墓である 

これらを みて 実は 邪馬台国は 吉備岡山にあった と言う主張をされておられる岡山の優秀な先輩がたがおられて 僕はその人達の書かれたものなどを気持ちよく拝見させて戴いています

この 特殊器台が たしか 山口県のタブセの海岸沿いの遺跡でも でていたのをユーチューブでも視たな~

タブセというたら、総理大臣を何ども出している地区だ

今の安倍総理も そこに墓参りにいかれると思う

まあ 話しは そっちには行かないで 岡山 楯つき だ

ここの墓から 30kgもの 朱が分厚く敷かれていたというから 水銀か??




その東側付近が キビの中山だ

そこで気になるのが 温羅や ウラ伝説




ネットで ウラを退治した 吉備津日子は ウラから 吉備津日子の呼び名を獲った と 書いてあるものも見かけるな~

そんで どうも 吉備の人達は ウラを尊敬して慕っていたようなことも かいてあるものもあるし???

ウラ というたら 百済から渡来した 身体の大きな人みたいだ

そないに なってくると また ストーリーが変わってくるんだよ・・・
この楯築遺跡に ウラと吉備津日子が関わっているのは 間違いないとも 思えるが 百済から来た 鬼と される方は いったい どちらじゃ?

楯築遺跡が造られた時代に 百済の政治情勢は どんなんだったんじゃ? 西暦2百年前後やな



そんなんも調べたり 美作市の考古学の遺跡のレポートを読んでみたり して過ごしていた

美作の 楢原の実家から 西側2km上相の付近の遺跡も凄いね 現在 調査中なんかな?

ここらは 2千年とか6000年前のものが 旧 出雲街道で 出てきてるんじゃ

鍛冶の後も これは1500年ほども前の時代になるか

鍛冶屋の後も 出土してるみたいだ



そうや西暦700年頃には 美作は 鉄製品を朝廷に税をそれで納めた みたいだから 



古代史のロマンは面白いよ

その時間は 相場を忘れれるし・・・



このあたりに しとこ 月曜日の朝 6時に ウラや吉備津日子のことを空想していると 仕事の頭に戻れない





 http://www.tohnai.com/top_main.html

上記リンクは 僕の本職のスクラップ屋経営のHP 東内誠日々更新中





**古代史偏 東内誠 数日連続し、アピール中***

キビの国 鉄 古墳 水銀 銅 金

弥生時代に瀬戸内沿いに 交易を目的に中国から人が渡ってきて住みつき 稗ヒエや栗 黍キビを食料にし 中国人は塩も造った



西暦300年代 瀬戸内の備前などでは

伽耶が北方騎馬民の南下で不穏になり、

更に韓半島『大陸』からの移住がつづいた。

この頃の製鉄は溶解温度の低い、

沼鉄(褐鉄鉱)で

禾本科植物の黍や葦の根に集まる鉄イオンから製鉄した

鉄を求めた集団は 旭川 吉井川の周辺に移住し



(此の書いた人は新羅系だと書いている)。



西暦400年頃より 百済系伽耶人も移住してきて

此の人達は 沼鉄では なく沼鉄より高温で鉄鉱石を使って 製鉄をし

鉱石からの 製鉄を始めた その勢力を

東は 加古川周辺まで キビの勢力を広げた



西暦700年以降 吉備は鉄を納めることになったが だんだんと鉄鉱石が枯渇し その後 

砂鉄から 鉄を造るようになった 



鉄以外も 水銀の産地でもあり 金も採れた



『まがね吹く吉備の中山 帯にせる細谷川の音のさやけさ』 

まがね吹くは 吉備の枕言葉



この歴史が正しいとしたら

岡山県アイダ楢原の神宿のトウナイの里山には 多分 

【沼鉄(褐鉄鉱)で

禾本科植物の黍や葦の根に集まる鉄イオンから

製鉄した】

---という 時代だと思う

その根についた 鉄分を低温度で 製鉄をして

馬に乗って示現した 神様に納めたのじゃないかな~ あくまで空想に過ぎないが

たくさんの歴史研究の方々の 書かれたものを 結び合わせていくと どうも そうなるか・・・

なので 最近 僕は 別けの犬じゃ~ って言うのもまんざらでもない



確定は出来ないが・・・

秦氏系の中国人 その中にはユダヤの血も混ざって 中国では 秦の始皇帝の 万里の長城8000kもの 土木工事にも使役されて その時代に どうも騎馬民族とも混ざって 渡来したかも 知れない



多分 吉備津日子の関係の神が 歩いた道だと思うんじゃ ワシ



神というても 実は人間なんやけれどな

えらかった 人は死んだのちに 神になるから



とうない メモ書き2015年2月

***吉備津日子神社 由緒の最後の文章***



(附記)古代の当神社宮司、難波王 藤内(現在の大藤内 大守 先祖)は吉備之国の田使首として備前、備中、備後、美作、伯耆、四国、兵庫の一部を含む吉備の国の長として各地の神社の祭祀及び諸業に至るすべてを司どり、

吉備神道の元祖であったとも言われています。

童話の桃太郎さんは、御祭神 大吉備津彦命 のことです。

邪馬台国女王とは当社御祭神 大倭迹迹日百襲比賣、

大倭迹迹稚屋比賣だとも傳へられています。



このヤマトトトソモモソ姫 大倭迹迹日百襲比賣が 

現在の奈良県の大神神社 から少し西の卑弥呼の墓

箸墓古墳であるhttp://kamnavi.jp/en/kibi/kibihiko.htm




たかじん さん のTV 天皇家の跡継ぎ問題↓


https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=z3ywzu1cgYI


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