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伽耶、加良、伽落、駕洛 金官国ここで金属が採れた1500年以上も前 卑弥呼 卑鉄銅 藤内

投稿日時:2015/12/24(木) 07:01

銅価格4700$為替121円割れて円高 仮定銅計算数値615円12/24朝   銅相場の動きは 休みムードに入った これで2015年は年越しの感じだろう 上海銅は36360元×18.46=671円/kg(銅) 2015年1月に750円が12月24日620円 そんな流れの年だった最悪だよ 今年はクリスマスケーキも買えない 為替評価益も無かった黒田日銀が120円を140円ほどに 円安誘導してくれていたらと 仮にそうしたら海外の銅下落がチャラだった しかし 今年は円安にはならんかった・・・ ま いいや 24.25.26.28.29と 後5日間は 銅の含有した金属屑を買い集めて 来年 その卑鉄金属が上昇してくれることを期待して年越ししよう 昨日も 天皇陛下のお誕生日ではあったが 仕事して100トンほども集めた 今年の年末は スクラップの発生量も少ない 極少ない 末端の屑集荷人も 相場が安くて やっていけないので離散していっていることも影響している こんな金属屑が安い相場になれば その流れは続くだろう 元気なリサイクル業者といえば 紙くず集めの人ぐらいか・・ 元気とは言っても 紙くず集荷の人たちは元々 やせ細っているし・・・ 屑屋おは~~~らい 業界も 段々と やせ細っていくわ・・・ ペルーの鉱山が増産という報道も流れた これは 困るよ 南米の太平洋側には 鉱物資源が多い この10年ほどの資源ブームで 鉱山投資が活発に行なわれてしまって 需給なんだよね・・ 鉄鉱石相場も 需給面で言えば 真っ暗い 原油相場も そうだよ 今夜は上げたが 結論を言えば ほぼ下がる その原因は 数年前から 田畑で出るようになったシェールガスだ そんで需給が崩れた http://tohnai.com/top_main.html   ***以下は古代史メモ書きのようなモノ 東内誠日記***   『卑弥呼は元々、鍛冶屋の集団である和爾氏の女性だったのでは 蘇我氏が覇権を掌握する前に、和爾は最も大事な氏族だった』

こんな文章を見た・・・
和珥氏は6世紀後半に春日、小野、柿本、粟田などに分かれたが、

そこから宮廷歌人・柿本人麻呂、歴史上最も著名な外交官といえる 遣隋使・小野妹子、 稗田阿礼、小野篁、小野道風、小野小町などを輩出した。とも書いてある・・・ 気比神宮 意富加羅国(おおからのくに、532年に新羅に帰属した金官国(金海)を指す)から額に角のはえた人が出雲を経由して越国の笥飯の浦にやって来て崇神天皇に貢ぎ物を奉り拝謁したいう記述が日本書紀 なんか この日本海の 敦賀周辺は新羅の匂いが強いような気がする 崇神天皇というたら西暦で250年~300年あたりになるのか? 崇神天皇と いうたら、別名 『みまき いりびこいにえのすめらのみこと』 この方が 畿内や 吉備(岡山 備前)に来たような気がするんや・・どうも・・そう思う 卑弥呼との年代がとても 近く・・・ 金官国というたら朝鮮半島の時代の何時ごろになるんや? ウイキでは金官国⇒金官国(駕洛国) 詳細は狗邪韓国 2世紀から3世紀に至って半島東南部の諸国は共通の文化基盤をもっていたが、政治的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた。当時弁韓地域の多くの小国の中で一番優勢な勢力は金海市付近の金官国(狗邪韓国、駕洛国)であった。 西暦250年前後か その時代に 日本海側に 朝鮮半島の南部の 国の人が渡来した その人たちは 金属の鍛冶屋の技術を持っていた か?   金官国

朝鮮古代史の基本史料である三国史記では、専ら加耶と記述しているが、伽耶、加良、伽落、駕洛という記述もある。同様に基本史料である三国遺事は主として伽耶であるが、呵ラ(口ヘンに羅)、駕洛という記載も見られる。日本書紀では主に加羅であるが柯羅とも記述している。梁書には伽羅、隋書には迦羅、続日本紀には賀羅という表記もある。これらはすべて同じ語で、表記が異なっているだけである。
日本の読み方で区別すると、加耶・伽耶(かや)、加良・賀羅・柯羅・伽羅・加羅・迦羅・呵ラ(から)、伽落・駕洛(からく)の三種類に区別される。

伽落・駕洛は朝鮮音では「ka-rak」となり、日本音では「カラッ」と表記した方が隔たりが小さい。加耶「ka-ya」は、ka-raのr音が移り変わったもので、朝鮮語ではしばしば見られる事柄である。
上記のように、駕洛も加羅も加耶も、元は同じ言葉である。

と 書いてあるか・・・ 崇神天皇 興味が沸く 時代でこの時代 又ウイキからコピ 崇神天皇10年9月、大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(四道将軍)。しかし、大彦命だけは異変を察知して和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返し、倭迹迹日百襲姫命の予言から 武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の叛意を知ることとなる。 武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとしたが、天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。 10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。崇神天皇11年4月、四道将軍が地方の賊軍を平定させて帰参、その様を奏上した。 崇神天皇の勢力が かなりの地域に広がったのだろう ?トーナイ東内誠の奉る 吉備津日子命は吉備を平定に向った西暦250年頃か まあ、1770年も前の時代の 文字の無い時代だから 解らんけど・・・   和邇氏の祖と 吉備の 吉備津日子は敵味方ではなく当時の同じ王家の側にはなる 歴史をやる人によれば この10代スウジン天皇が初代王様という人も多い 吉備の王国は それ以前のもっと古い時代からも 存在したと思う このスウジン天皇が 吉備を攻めて 乗っ取ったのかも知れん まだ この時代では 天皇とは呼ばなかったみたいだし   中山太神宮 大藤内 東内としては 吉備に何時 先祖が来たかを知りたい 東内と有木(有木神社)は 化外から来た と 書いてあるので気にしている 有木も東内も 吉備の国のあちこちで出てくる神道系   有木神社というのは 隠岐の島だったかにも 存在する 日本海の中だ     トーナイ藤内 東内誠 中国向け雑品輸出 その昔から金属にご縁のもの

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