GOO日々更新 東内誠 相場 歴史などのブログ 2014/3/3
高槻市に住み岡山美作神宿を往復して過ごす東内誠古代史と銅鉱脈と和気氏
投稿日時:2014/03/03(月) 06:17
蘇我稲目(そがの いなめ)は 宣化(せんか)天皇=(西暦536年ごろ)時代に 大臣となった
蘇我稲目は古墳時代の豪族であり、
娘二人を天皇の妻にし その子供が長女は
用命天皇・ 推古天皇を生んだ、
妹は
すしゅん 崇峻天皇 を生まれている
東内誠が 今 住まいさせてもらってる 大阪府高槻市 もしくは隣接 茨木市に 26代継体天皇の御陵があるのですが そのしばらく後に 出てくる 天皇の名前やな 系図の表では 継体(けいたい)天皇 の 左下 すぐあたりから 蘇我稲目 って 方が 出てくるんだ
すぐに 忘れちゃうんだから なかなか 覚えきれないねェ 書いても 覚えきれない
すしゅん 崇峻天皇の即位は 蘇我馬子(そがのうまこ)によって推薦された とある ので 蘇我の稲目の息子 馬子によって 推薦されたか そうか・・・
一方の 実力者 物部守屋(ものべもりや)は 穴穂部皇子を 即位させようと するが 穴穂部皇子は 蘇我の馬子によって殺されてしまうのか・・
蘇我の馬子は ここで 物部守屋を 抹殺したんだ
西暦592年頃 蘇我は 凄い 力を持って 天皇も恐がらずような 存在になっていたのか そうか
ある日 天皇にイノシシを献上する者がいて 天皇は刀を抜いて その猪の目を刺して、 何時かこの猪の首を斬るように 自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ と おおせられた
それを聞きつけた 蘇我の馬子が 部下に命じて
すしゅん 崇峻天皇を暗殺?
暗殺したその部下が
東漢駒(やまとのあや の こま) か
漢氏(あやうじ)は 前にも勉強したね
【阿知使主の末裔の漢氏は飛鳥に近い檜隈 ひのくま (奈良県 明日香村やな) を拠点とした】
この人達 渡来人グループは 此のあたりに 纏まって住んだ? 住まされた? のかな
東漢氏は 先に日本に渡来した 秦氏と 同じで 漢から 製鉄技術を持ってきたとされるんや
それに 土木や建設の技術、ハタオリの技術も持ってきたらしいね 蘇我氏 絶対の時代には 蘇我氏について その製鉄技術を用いて 軍事に長けていて 蘇我氏の 門衛や 宮廷警護やな
602年の新羅征伐計画では 兵器の製造担当やね
なので 忠実な番犬でもあったので 暗殺実行も この東漢氏が ヤッタ・・・
しかし 東漢氏 壬申の乱(じんしんのらん672年)の おりには 蘇我氏と袂を分けて 生き残ったみたいです
その後の 時代でも 700年のごろ だったかな
『蝦夷征討(えみし せいとう)』
東北の 蝦夷 を 天皇の命令で征伐に行った
東漢氏の 系統の 坂上の田村麻呂 の活躍は
アテルイ伝説 でも 有名やな
軍事専門や渡来系 東漢氏の子孫
その当時の 中華思想に 影響してるのか
そやろな
儒教の思想では 王土思想か 全ての国民や土地は
1人の天皇のものという考え方に進んでいくんやろね
まあ 中華思想はおいておき
坂上の田村麻呂は 大出世をして 天皇から 清水寺付近の土地を 授かり 清水寺を建立したんや
ワシの個人的なことでは この 清水寺の お堂の中の 何かに 惹きつけられてる 感じはあるのんじゃ
これって 前も これ 書いたと思う
2009年の初めに この お堂の前で 涙が溢れんばかりに 出てね 止まらなくなった経験があるの
なんで なんやろ ? 解からないわ よく泣くのが バタ屋東内なのですが 人前で 涙が止まらなくなくなるってのも 滅多にある事では ないからね
不思議な場所 何度も 行きたい場所
清水寺は ある意味 蝦夷の魂を鎮魂する目的もあったのかも 知れないですね
中華思想によって 多くの 先住民が
自然と共生して暮らしてきたのを
追い払っていった 日本の歴史がある のですから
坂上の田村麻呂も 罪の無い 人々を殺して 征伐してきたのですから その戦った相手を供養するという気持ちも 多少はあったのだろう
と ワシは思うんじゃ
間違って いるかも 知れないが
それは 殿に 行けと もののふ の立場では そのように言われれば 行かねば もののふ の筋が通らない ので… それは 仕方が無い
戦士とは そういうものじゃ
2014年3月2日も 神戸の港に 末っ子 真理を8時半に送ってやって その後は 山陽道の 下道を走って岡山に向けて走って 途中から高速にのって 和気氏を目指した また 山道をグルグル徘徊していたら また 和気神社周辺の山道に 自然と向ってしまうの
ここの安養寺は 建替え工事が始まるのかな
此の安養寺の 裏の山も どうも 神憑り的やな
巨石の横に安養寺や
この和気の水 川の 川上が 美作なの
この道中の山道 昨日は どや レクサス450が通れるか どうか ギリギリの道幅の場所も多くて 巨大な100トンとか1万トンとかある 巨石が 数箇所で見れてさ
古道 恐い けれども ワシの先祖 この周辺の 山の 獣道のような 所を たぶん よく 彷徨っていたような気がするの 猪を追っていたのか 殿のご命令で 銅を探していたのか 鉄を探していたのか知らんけどもな どうも銅の鉱脈は いたる所で 銅の色の 石は多い
20mHの滝の写真も 撮ってきたけれど 美し過ぎる
しかし この写真のUP は しないでおきましょう
山に たくさんの人が来たら 荒らされたら困るわ
でも 自慢できるので 後で UPするかも 知れない
気が 変わる場合も ワシ、あるから
山道を 徘徊すると また サーキット場の 所の分かれ道に 出て来てた
美作市の妙見 字が違うか? (漢字が違っても発音が同じだと 同じ意味の地名とも考える事がある) 三ツ星山のすぐ北側 田尻病院で お昼には 父の医療的な介護件で 打ち合わせの約束してたので 古代史調べの時間が 昨日は少なかった けども 収穫は かなりあったな
母の命日が1日だった一日墓参り 遅れたが
49年や そこで 孫たち2人と おると 秀樹ちゃん が 来て 暫く 喋った
秀樹の家も 5軒の 5鉾立ての 祠を維持している家でな
秀樹にも 調べるように 頼んだ
彼は あんまり 知らないみたいやな せっかくの 1300年の歴史のモノを 守っているのじゃし 少しは知恵として 神宿の人も 歴史のレベルを高めるようにせな あかん
そやな それを するには 和気の銅像の前に 書いてあるものを 読んで 山道を 美作 楢原 神宿 と 辿ってみたら エエカモ シレナイね それと 天皇家の 歴史 日本の歴史も 多少は 読み直したらエエ
その後 夕方は おんぼろの 東内の実家で ぼーとしてたら
うえの 分家の 国男のところの ようこさんが 喋りにきて 少し しゃべって帰った 深く 会話したら
国男や 晴行の 話題になると 悲しいので
その話題は 出さない 国男と はる の 墓は
同じ墓地なので 墓にいけば 手は合わせている
まあ 若くして 他界してしまった 誰かが 酒を墓に供えてくれてる くに 仲間が多かったんや
くに が おらんように なった村は寂しいものじゃ
田舎に 残って 農業を頑張ってくれていたにな
しかしTPPが始まり 十年ほど 経てば どうなるのじゃ 田舎の里の 維持管理
まあ ワシの家はワシの代以降 2代は 孫にも 教えていっているので そなや 後 100年近くは 大丈夫やな ワシの家は
ワシの墓地の 里道を挟んで 東の小山 向かいが もっと古い東内やろ そこが 下の家でグーグルの地図でも 宮の マークが ついてる家で
この家は 現在は警察関連2代連続やな おっちゃんは警視やったみたいや 長男は財務省や
そこから 美作 平福 いちのたわ に嫁にいって また こちらに 時代時代で 縁を持って 近い血で 繋がっている傾向や
日本中 田舎は そんな 同族が 多いと思う
その昔は 和気氏の 手下(雑役係り)だったのかね
しかし1300年前から 近代までは 藤原氏の手下やな
しかし 秦氏は それよりも 藤原氏よりも 古くから 日本に渡来したように あちこちで 書かれている
正しい事は なかなか 解からないね
しかし タイムカプセルが 残っているので そのうちには徐々に解明はされてくると思う
宮内庁次第なのでしょうな
おっと 余計な ことは書いたらアカン
まあ 和気神社の鉾たて 石は 立派なものです
近年に 作られている感じはある
しかし その横に 置いてある さざれ石は 君が代に出てくる さざれ石 のように 思う
けっこうに 大きな さざれ石じゃぞ~
それも あって トーナイ子達の住む建屋にも
千代に八千代に の 八千代ビルやな
此の建屋は 大阪のJAの最高幹部クラスの方が
陛下から 叙勲の年に その方から買って 命名してもらったんじゃ この方が 高槻市JAの理事長 組合長やな
この御方が この不良債権になりかけたモノを
ワシに5分で 決めて購入せよ と申されたの
それで 買ったのんじゃ
この人 2度も受勲されてるよ
此の建屋の 周辺に 東内誠一家は この先も住む予定やな ワシの家も そのすぐや
家 今 4.5箇所やね
まあ しかし 岡山までは 150kmあるんじゃ
かなり たいへん だよ 和気インタ周りコースだと 180km
銅の相場は 以下に詳しく書いています
下のトーナイも日々更新中ですよ
?トーナイ ホームぺージ↓ リンク
http://tohnai.com/top_main.html
廃棄物の処分や リサイクル全般があれば
お気軽に とうない に お申し付けください
関西一円 量があれば お伺いします
工場の解体 重量物の運搬 搬出作業
銅の高価買取り
プラスチックの再生
くず鉄問屋 非鉄問屋 産廃処理も2工場が許可
トーナイの東内誠
電話は072-678-1112 (代表)
和気広虫・和気氏の先祖=応神天皇? 鉾立石 銅鉱山 和気清麻呂は その子孫?建国2600年?
吉備国 美作市 中山神 五鉾立て神事 藤内何時の時代からか?東内 和気神社から 山道を川上に30km この道は 古代からある道なのだろう その途中にも長福寺などもある 大きなお墓の岡田家? 鷹の羽違い 真言御室派(おむろは)? 美作平福の古代の石棺1500から2200年前か?安養寺も 川に沿って 現在 東内誠 3箇所確認 神社とお寺は似たようなものと考える
和気界隈の墓地を巡る探検 藤や はた 出てくる 出てくる 岡山県 歴史の宝庫なの?
【神社 藤内 とうない 東内 遺跡 で検索したら
他人様の物を 少し コピー『』↓】
藤は産鉄のキーワードか
『中山神が美作国楢原邑神宿に初めて示現したとき,
触媒的役割りを 果たしたのが
「とうない東内/藤内」氏であった。
藤内東内氏は菰を刈って
チマキを作り神を饗応したといい,
その功から以後 明治初年まで美作東半国の初穂料を徴収し,中山神社に納める 職能を担うこととなる。中山神の古代金属生産とのつながりや,楢原地域の産銅・産鉄の可能性の高いことを指摘したところでもある。
また,フジにかかわる伝承として特異な感じのものが, 出雲と播磨の両国に残っている。
いずれも鉄産にからむもののようで, まずは出雲の話からかいつまんで述べておきたい。
出雲のとうない(藤内)
柳原大納言なにがしが勅使として出雲大社へ下向のみぎり, その警護役のものに
藤内某というものがあった。
能義郡布部というところに至り, 宿泊した長者の家で近辺(比田)に巣くう魔物の話耳にし, 大納言の命により 藤内が退治することになる。 山王権現の使いである猿の案内でめでたく化物を打ち取るが, 頭は人のようで 白髪三尺あまり, 四足は狼・尾は牛に似て,前身黄色の毛に覆われていたという。
藤内はこの地に留まり, 比田の山麓に宮を建てて鎮守とした。 その後藤内の子孫は四十数代続いて今日に至り, いま田辺の姓を名乗っているという。
(原話:田辺善明/再話:小汀松之進)
以上 他人様原稿からの一部コピー
以下は 私の文書です
ウィ鬼ペテァからの
藤内(何時の時代からか東内)は
藤原氏の 私的 家来というか 雑役係りで
警護 ご主人様の旅の先までも警備 あらゆる
雑役などの業務
行けと 言われれば 皆殺し にも行く お役目 である
藤内
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤内(とうない、ふじうち)
日本の姓のひとつ。
日本の古代から近世までの貴族である藤原氏 に
任ぜられた内舎人 を藤内と呼称した。
血や 汚れ仕事も 命じられれば 行くのんじゃ
なんか ワシの体内に 多分に その血は
感じる所が あります
時代によっては 穢れから 差別を受けた時代もあったかも 知れません
しかし そんな事には 東内は 感知しない
藤原王の 言われる事には 忠実に番犬の如く
働いたのですから 戦士/雑役の血筋には誇を持ちたい
王が その地に留まり 番をせい と おうせつかれば
1300年間でも 従順に 従う者なり 藤内 東内
千数百年も過去から 武器を持って警護させて戴いた
藤原系の おえらい方が このつたない文章を
ご覧下されば
トーナイを覚えて おいてくださいまして
今 ワシ グローバルなゴミの循環型を進めたいのです
何か お役に立ちます仕事をしたい
0120 535319が連絡先でございます
.
蘇我稲目は古墳時代の豪族であり、
娘二人を天皇の妻にし その子供が長女は
用命天皇・ 推古天皇を生んだ、
妹は
すしゅん 崇峻天皇 を生まれている
東内誠が 今 住まいさせてもらってる 大阪府高槻市 もしくは隣接 茨木市に 26代継体天皇の御陵があるのですが そのしばらく後に 出てくる 天皇の名前やな 系図の表では 継体(けいたい)天皇 の 左下 すぐあたりから 蘇我稲目 って 方が 出てくるんだ
すぐに 忘れちゃうんだから なかなか 覚えきれないねェ 書いても 覚えきれない
すしゅん 崇峻天皇の即位は 蘇我馬子(そがのうまこ)によって推薦された とある ので 蘇我の稲目の息子 馬子によって 推薦されたか そうか・・・
一方の 実力者 物部守屋(ものべもりや)は 穴穂部皇子を 即位させようと するが 穴穂部皇子は 蘇我の馬子によって殺されてしまうのか・・
蘇我の馬子は ここで 物部守屋を 抹殺したんだ
西暦592年頃 蘇我は 凄い 力を持って 天皇も恐がらずような 存在になっていたのか そうか
ある日 天皇にイノシシを献上する者がいて 天皇は刀を抜いて その猪の目を刺して、 何時かこの猪の首を斬るように 自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ と おおせられた
それを聞きつけた 蘇我の馬子が 部下に命じて
すしゅん 崇峻天皇を暗殺?
暗殺したその部下が
東漢駒(やまとのあや の こま) か
漢氏(あやうじ)は 前にも勉強したね
【阿知使主の末裔の漢氏は飛鳥に近い檜隈 ひのくま (奈良県 明日香村やな) を拠点とした】
この人達 渡来人グループは 此のあたりに 纏まって住んだ? 住まされた? のかな
東漢氏は 先に日本に渡来した 秦氏と 同じで 漢から 製鉄技術を持ってきたとされるんや
それに 土木や建設の技術、ハタオリの技術も持ってきたらしいね 蘇我氏 絶対の時代には 蘇我氏について その製鉄技術を用いて 軍事に長けていて 蘇我氏の 門衛や 宮廷警護やな
602年の新羅征伐計画では 兵器の製造担当やね
なので 忠実な番犬でもあったので 暗殺実行も この東漢氏が ヤッタ・・・
しかし 東漢氏 壬申の乱(じんしんのらん672年)の おりには 蘇我氏と袂を分けて 生き残ったみたいです
その後の 時代でも 700年のごろ だったかな
『蝦夷征討(えみし せいとう)』
東北の 蝦夷 を 天皇の命令で征伐に行った
東漢氏の 系統の 坂上の田村麻呂 の活躍は
アテルイ伝説 でも 有名やな
軍事専門や渡来系 東漢氏の子孫
その当時の 中華思想に 影響してるのか
そやろな
儒教の思想では 王土思想か 全ての国民や土地は
1人の天皇のものという考え方に進んでいくんやろね
まあ 中華思想はおいておき
坂上の田村麻呂は 大出世をして 天皇から 清水寺付近の土地を 授かり 清水寺を建立したんや
ワシの個人的なことでは この 清水寺の お堂の中の 何かに 惹きつけられてる 感じはあるのんじゃ
これって 前も これ 書いたと思う
2009年の初めに この お堂の前で 涙が溢れんばかりに 出てね 止まらなくなった経験があるの
なんで なんやろ ? 解からないわ よく泣くのが バタ屋東内なのですが 人前で 涙が止まらなくなくなるってのも 滅多にある事では ないからね
不思議な場所 何度も 行きたい場所
清水寺は ある意味 蝦夷の魂を鎮魂する目的もあったのかも 知れないですね
中華思想によって 多くの 先住民が
自然と共生して暮らしてきたのを
追い払っていった 日本の歴史がある のですから
坂上の田村麻呂も 罪の無い 人々を殺して 征伐してきたのですから その戦った相手を供養するという気持ちも 多少はあったのだろう
と ワシは思うんじゃ
間違って いるかも 知れないが
それは 殿に 行けと もののふ の立場では そのように言われれば 行かねば もののふ の筋が通らない ので… それは 仕方が無い
戦士とは そういうものじゃ
2014年3月2日も 神戸の港に 末っ子 真理を8時半に送ってやって その後は 山陽道の 下道を走って岡山に向けて走って 途中から高速にのって 和気氏を目指した また 山道をグルグル徘徊していたら また 和気神社周辺の山道に 自然と向ってしまうの
ここの安養寺は 建替え工事が始まるのかな
此の安養寺の 裏の山も どうも 神憑り的やな
巨石の横に安養寺や
この和気の水 川の 川上が 美作なの
この道中の山道 昨日は どや レクサス450が通れるか どうか ギリギリの道幅の場所も多くて 巨大な100トンとか1万トンとかある 巨石が 数箇所で見れてさ
古道 恐い けれども ワシの先祖 この周辺の 山の 獣道のような 所を たぶん よく 彷徨っていたような気がするの 猪を追っていたのか 殿のご命令で 銅を探していたのか 鉄を探していたのか知らんけどもな どうも銅の鉱脈は いたる所で 銅の色の 石は多い
20mHの滝の写真も 撮ってきたけれど 美し過ぎる
しかし この写真のUP は しないでおきましょう
山に たくさんの人が来たら 荒らされたら困るわ
でも 自慢できるので 後で UPするかも 知れない
気が 変わる場合も ワシ、あるから
山道を 徘徊すると また サーキット場の 所の分かれ道に 出て来てた
美作市の妙見 字が違うか? (漢字が違っても発音が同じだと 同じ意味の地名とも考える事がある) 三ツ星山のすぐ北側 田尻病院で お昼には 父の医療的な介護件で 打ち合わせの約束してたので 古代史調べの時間が 昨日は少なかった けども 収穫は かなりあったな
母の命日が1日だった一日墓参り 遅れたが
49年や そこで 孫たち2人と おると 秀樹ちゃん が 来て 暫く 喋った
秀樹の家も 5軒の 5鉾立ての 祠を維持している家でな
秀樹にも 調べるように 頼んだ
彼は あんまり 知らないみたいやな せっかくの 1300年の歴史のモノを 守っているのじゃし 少しは知恵として 神宿の人も 歴史のレベルを高めるようにせな あかん
そやな それを するには 和気の銅像の前に 書いてあるものを 読んで 山道を 美作 楢原 神宿 と 辿ってみたら エエカモ シレナイね それと 天皇家の 歴史 日本の歴史も 多少は 読み直したらエエ
その後 夕方は おんぼろの 東内の実家で ぼーとしてたら
うえの 分家の 国男のところの ようこさんが 喋りにきて 少し しゃべって帰った 深く 会話したら
国男や 晴行の 話題になると 悲しいので
その話題は 出さない 国男と はる の 墓は
同じ墓地なので 墓にいけば 手は合わせている
まあ 若くして 他界してしまった 誰かが 酒を墓に供えてくれてる くに 仲間が多かったんや
くに が おらんように なった村は寂しいものじゃ
田舎に 残って 農業を頑張ってくれていたにな
しかしTPPが始まり 十年ほど 経てば どうなるのじゃ 田舎の里の 維持管理
まあ ワシの家はワシの代以降 2代は 孫にも 教えていっているので そなや 後 100年近くは 大丈夫やな ワシの家は
ワシの墓地の 里道を挟んで 東の小山 向かいが もっと古い東内やろ そこが 下の家でグーグルの地図でも 宮の マークが ついてる家で
この家は 現在は警察関連2代連続やな おっちゃんは警視やったみたいや 長男は財務省や
そこから 美作 平福 いちのたわ に嫁にいって また こちらに 時代時代で 縁を持って 近い血で 繋がっている傾向や
日本中 田舎は そんな 同族が 多いと思う
その昔は 和気氏の 手下(雑役係り)だったのかね
しかし1300年前から 近代までは 藤原氏の手下やな
しかし 秦氏は それよりも 藤原氏よりも 古くから 日本に渡来したように あちこちで 書かれている
正しい事は なかなか 解からないね
しかし タイムカプセルが 残っているので そのうちには徐々に解明はされてくると思う
宮内庁次第なのでしょうな
おっと 余計な ことは書いたらアカン
まあ 和気神社の鉾たて 石は 立派なものです
近年に 作られている感じはある
しかし その横に 置いてある さざれ石は 君が代に出てくる さざれ石 のように 思う
けっこうに 大きな さざれ石じゃぞ~
それも あって トーナイ子達の住む建屋にも
千代に八千代に の 八千代ビルやな
此の建屋は 大阪のJAの最高幹部クラスの方が
陛下から 叙勲の年に その方から買って 命名してもらったんじゃ この方が 高槻市JAの理事長 組合長やな
この御方が この不良債権になりかけたモノを
ワシに5分で 決めて購入せよ と申されたの
それで 買ったのんじゃ
この人 2度も受勲されてるよ
此の建屋の 周辺に 東内誠一家は この先も住む予定やな ワシの家も そのすぐや
家 今 4.5箇所やね
まあ しかし 岡山までは 150kmあるんじゃ
かなり たいへん だよ 和気インタ周りコースだと 180km
銅の相場は 以下に詳しく書いています
下のトーナイも日々更新中ですよ
?トーナイ ホームぺージ↓ リンク
http://tohnai.com/top_main.html
廃棄物の処分や リサイクル全般があれば
お気軽に とうない に お申し付けください
関西一円 量があれば お伺いします
工場の解体 重量物の運搬 搬出作業
銅の高価買取り
プラスチックの再生
くず鉄問屋 非鉄問屋 産廃処理も2工場が許可
トーナイの東内誠
電話は072-678-1112 (代表)
和気広虫・和気氏の先祖=応神天皇? 鉾立石 銅鉱山 和気清麻呂は その子孫?建国2600年?
吉備国 美作市 中山神 五鉾立て神事 藤内何時の時代からか?東内 和気神社から 山道を川上に30km この道は 古代からある道なのだろう その途中にも長福寺などもある 大きなお墓の岡田家? 鷹の羽違い 真言御室派(おむろは)? 美作平福の古代の石棺1500から2200年前か?安養寺も 川に沿って 現在 東内誠 3箇所確認 神社とお寺は似たようなものと考える
和気界隈の墓地を巡る探検 藤や はた 出てくる 出てくる 岡山県 歴史の宝庫なの?
【神社 藤内 とうない 東内 遺跡 で検索したら
他人様の物を 少し コピー『』↓】
藤は産鉄のキーワードか
『中山神が美作国楢原邑神宿に初めて示現したとき,
触媒的役割りを 果たしたのが
「とうない東内/藤内」氏であった。
藤内東内氏は菰を刈って
チマキを作り神を饗応したといい,
その功から以後 明治初年まで美作東半国の初穂料を徴収し,中山神社に納める 職能を担うこととなる。中山神の古代金属生産とのつながりや,楢原地域の産銅・産鉄の可能性の高いことを指摘したところでもある。
また,フジにかかわる伝承として特異な感じのものが, 出雲と播磨の両国に残っている。
いずれも鉄産にからむもののようで, まずは出雲の話からかいつまんで述べておきたい。
出雲のとうない(藤内)
柳原大納言なにがしが勅使として出雲大社へ下向のみぎり, その警護役のものに
藤内某というものがあった。
能義郡布部というところに至り, 宿泊した長者の家で近辺(比田)に巣くう魔物の話耳にし, 大納言の命により 藤内が退治することになる。 山王権現の使いである猿の案内でめでたく化物を打ち取るが, 頭は人のようで 白髪三尺あまり, 四足は狼・尾は牛に似て,前身黄色の毛に覆われていたという。
藤内はこの地に留まり, 比田の山麓に宮を建てて鎮守とした。 その後藤内の子孫は四十数代続いて今日に至り, いま田辺の姓を名乗っているという。
(原話:田辺善明/再話:小汀松之進)
以上 他人様原稿からの一部コピー
以下は 私の文書です
ウィ鬼ペテァからの
藤内(何時の時代からか東内)は
藤原氏の 私的 家来というか 雑役係りで
警護 ご主人様の旅の先までも警備 あらゆる
雑役などの業務
行けと 言われれば 皆殺し にも行く お役目 である
藤内
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤内(とうない、ふじうち)
日本の姓のひとつ。
日本の古代から近世までの貴族である藤原氏 に
任ぜられた内舎人 を藤内と呼称した。
血や 汚れ仕事も 命じられれば 行くのんじゃ
なんか ワシの体内に 多分に その血は
感じる所が あります
時代によっては 穢れから 差別を受けた時代もあったかも 知れません
しかし そんな事には 東内は 感知しない
藤原王の 言われる事には 忠実に番犬の如く
働いたのですから 戦士/雑役の血筋には誇を持ちたい
王が その地に留まり 番をせい と おうせつかれば
1300年間でも 従順に 従う者なり 藤内 東内
千数百年も過去から 武器を持って警護させて戴いた
藤原系の おえらい方が このつたない文章を
ご覧下されば
トーナイを覚えて おいてくださいまして
今 ワシ グローバルなゴミの循環型を進めたいのです
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0120 535319が連絡先でございます
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