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ブログ 2015/7/1
元吉備の国 中山太 東内誠 宮崎のみかど神社(正倉院)に興味 壬申の乱の時代[GOO日々更新 東内誠 相場 歴史などのブログ]
投稿日時:2015/07/01(水) 06:49
7月1日5時起床 久しぶりに眠れました 相場に翻弄される日々です 大阪港でグローバルな屑商を営むバタ屋屑商トーナイ 金属屑を集めて外航船をチャーターして海外に運び 売ったり買ったり日々 それやって過ごす立場の 東内誠 渡来人 ワシの先祖はその昔 むかし 金属を追って1300年以上も前に 大陸からやってきた
新羅(しらぎ)から 来たのか 任那(にんな みなま)からやってきたか、それとも白村江(はくすきのえ)の戦乱の前後にやってきたか それはよく解らないのだが、金属に関わった渡来系ではなかったのか と空想している
昨日は 宮崎県(九州)の みかど神社(西の正倉院がある) 山の中の 凄い所
ここの 正倉院の中の置いてある物を ユーチューブで見かけて これが気になって気になって ここに 僕の先祖伝来から 保存してる飾りと同じ物が保存されていて 気になって気になって施設の管理者の方に電話して 直接尋ねてみた
ここの博物館は 宮内庁も認めているみたいだから 凄い歴史的に重要な物が残っている
大阪から見学に行くとしたら 日帰りはかなり キツイか
朝一の飛行機に乗って 宮崎空港からレンタカー借りて2.5時間ほどか 11時には現地につけるかな~
まあ そこに西の正倉院がある
ここを 宮内庁が認められたには それなりの凄い証拠があるから 宮内庁も認められたのだろう
宮内庁というか 天皇がお持ちの 鏡と全く同じ鏡が此処から 出ている
これは 日本に3枚だったか4枚しかない 貴重なものらしい
その一枚は 奈良の大仏の横の正倉院にもある
日本人は何処から来たのか その鍵の一つだと思う
このみかど神社から もの凄い量の 鉄製の矛も出ている
矛 鏡 というのは それは 日本人が何処からやってきたかを 示していると思うんじゃ ワシ
古代史のレベルは 僕には学問が無くて 頼りない知識なのだが 感じる 勘 というか それは 自分でも強い方だと自分では勝手にそのように思ってるんじゃ ワシ。
正倉院というたら これも 藤原不比等が関係しているんや
藤原不比等が建てられたものではないが、 藤原不比等の2番目の嫁から 生まれたお子が 天皇のお后になられた 民間人からは 初めてになるのかな?
その天皇陛下がお亡くなりになり
その遺物を 正倉院に保存したのが始まりだ
犬養美千代(いぬかい みちよ)
どうも この女性が 凄い女性だったみたいだ
ネットで調べると 不比等を操った 嫁 みたいな事が書かれている
このお二人のお子が 聖武天皇のお后で
聖武天皇の死後に 正倉院を 建てた みたいだから
犬養美千代は この先 もっと 調べてみたいが
犬養 とは
阿居太都の命の末裔で もとは猟犬の飼育を職務としていた と ある
猟師系というたら 失礼になるか?
不要なことを書けば 不敬罪にも なるが なにしろ昔のことだhttp://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/keizu.htm
大伴氏の系図にも行くつくか?
此の系図をみると 不比等も出てくるし 左のほうには 空海も出てきて 佐伯氏やな
あんまり 書くとまずいか・・
とにかく 正倉院の中の物は 国の始まりと言うか
貴重な資料だ
そんで 日本人は 鏡が特に 大好きなんじゃ
日本人というても その昔は 皆 渡来してきたには間違いないんじゃがな
西暦600年代は 証拠が多数残っているので・・・
とにかく この時代の 藤原不比等 犬飼美千代 と そのお子 この人たちは その1300年以上も前に けっこうにグローバルだった と思うのじゃ
シルクロードからの 知識もかなり入っていたと想像する
藤原氏が 天皇家に 入っていかれたのが その時代だろう
しかし 西の正倉院を調べると 正に 百済じゃない・・
ただ この西の正倉院を再建築されたときに 韓国の学者さんが 関係してきている傾向がみえるので それには注意をしないとならない
百済の王は 敗れて 捕えられた 多分 殺された
その一族の人で 最後の 百済王が まず 広島県に逃れてきたみたいだ
その後 畿内に向って どうも その時代に 壬申の乱で 畿内は 戦乱になって また この最後の百済王は 宮崎県に逃れてきたみたいだ
壬申の乱が どうも よく 僕には理解が出来ていないのは ちょっと問題だが これは また よく調べて研究をしないと 歴史の 流れが読めなくなる
歴史にお詳しい方が 僕のブログを見たら 初心者マークで 勉強不足 って思われるだろうが まあ それは仕方がない
そりゃ そうじゃ 学校へ 中2くらいから まともに行っていないものが 書いているんだから
基礎知識は0や
その知識を 今から 高めようと 30代くらいからは 勉強はしてる
30代から 勉強をしたというのは 海外に出るようになって あまりにも 日本の事を知らないと 舐められるし
そんな事もある
6時か そろそろ 自分の仕事の頭に戻そう
銅は5760$ほどか 安いね~
計算すると 755円前後ですな~
日々 24時間 此れって 動いてるんじゃな~
ワシか なんで気にしてるかというと 資源系とか$とか
全財産の半分は そこに行ってるからね 気になる
資源関係でこれをお読みの人には
本日7/1から ステンレスも アルミも くず鉄も相場下げ
モーター屑も 銅の配管も 屑 全面安
相場が下がったので 単価は下げて仕入れるしか方法が無い
ステンレスは ニッケルが最安値なので 5円以上下落
もしかして 時間が経過したら 昨日よりも10円下げる
アルミ屑も 売り先が細ってきている 相場が出し難い
なんでなのか
それは 中国の鉱工業生産が悪化しているからである
このブログは 僕の担当の各金融も見ておられるので書いておくが でもね 新年度入りし 5.6月 僕個人的には
うまく 経営はやれている 売り上げも落とさず 経費は落として なんとか 廻している
サクヤ 2ヶ月の仮の決算みたいなのを 頭と紙で出してみて けっこう やれている
したたかに しなやかに なんとしても この激変を乗り越える
世界同時資源安
神様は 試練を与えて下さる
朝夕に 相場がよくなってくれることを祈っているが
なかなか よくならない
されど ヘコたれては ならない
死んでも 死なない
無茶言うぞ 死んでも へこたれない そういう気持ちだけは 持っておらんと この荒波は そうとうキツイ
中国の 上海総合も 荒波のような 上下や
日に 上下で11%も揺れた
波が荒いど~~
ほんでもな 昔の人でも 大航海して 命を懸けて
大海原に 出て行ったんじゃ
それは 命を懸けた 船の旅だったと 思う
そんで 百済の最後の王様は 宮崎県にも 追っ手が来て そこでも 戦いをしてる
その 昔の 物語を 地元の人たちが 1300年も前の事を 祭りのようなことで 残してくれているんじゃ
あんたとこの 先祖は百済か と 聞いたら 嫌 それは違う とはお答えになるが 宮崎にも 百済の関係の人たちが住み着いたんだと思う
勿論 吉備の国 備前や 播州 みまさか にも 百済の人が住みついた
白村江の戦いの 後に 凄い人数の 人たちが やってきた
http://tohnai.com/top_main.html
キビ国の古代史研究の先輩の書かれている文章の一部を勝手にコピ【】
-白猪しらいの屯倉みやけ-の部分
僕が考えるに 多分 これは西暦555年ごろではないかと空想する東内
蘇我氏の時代
白い猪は
王仁 わに 博士 漢字を伝来させた人で(枚方 寝屋川にご縁がありそうだ)
ヤマト王権は 朝鮮半島から王仁という学者を呼んだ
そして ワニ氏というんか 王仁博士と言う人なのか
漢字を持って招聘された人になるんかな~
【6世紀の後半になると、ヤマト政権は本腰を入れて吉備勢力の制圧に乗り出した。『日本書紀』に記された白猪屯倉や児島屯倉の設置は、吉備勢力が支配する地域にクサビを打ち込み、支配体制の強化の現れと解したい。
屯倉とは大王の建物(施設)が存在する一画を指す表現である。だが、その実態は倉庫や土地、および土地を耕作する専業農民を含むという。しかも、米穀の確保といった農業経営に関わるものに限らない。港湾など交通の要衝におかれた政治的・軍事的色彩の濃いものや、製塩・製鉄などヤマト大王権力が必要とする物資調達のためのものも含まれる。】
555年頃に 吉備のミマサカに 白猪 みやけ を設置したのが 蘇我氏(時の総理)
その屯倉の設置には 枚方の ワニ氏(百済系か?)ここらが 推し進めたんか?
勿論 それ以前から 吉備の国は 大きな力持っていたのだが 555年頃には 大和朝廷の直轄地になっていったか・・・
それは 大和朝廷に招聘され 漢字を持って渡来してきたオウジンの関係者が ミマサカを治めに来たと思う
ミマサカだけでは なく 瀬戸内の海の方にも 屯倉を設置したみたいだ
吉井川に 沿って ワニ氏(オウジン)が来た それは 蘇我氏の配下なのだろう
555年ごろ 枚方市(カタノ市を含む)と美作市は 関わっている感じや・・
555年というたら 継体天皇の死後 数10年後の辺り
継体天皇は 大阪府 枚方 高槻市やから
此の継体くらいの 近代化した力ならば 船で 吉備の国あたりなら すぐに行かれたと思う
高槻市で出ている 出土の武器を見れば レベルがかなり高いんだ
鉄や銅や 土器でも 古墳でも レベルが高い
元々はキビから ヤマトに行ったとしても
何代も経てば 親族でも 解らない様になって
親戚どうしでも 戦争するから・・・
555年頃に とにかく 吉備の国は ヤマト勢力に駐屯され 天領にされていったんかな~
此のあたりは 完全に空想の世界や
1500年も前の事は解りつらい
しかし 交野市の農民と ミマサカの農民の顔などは なんか似ているような感じだ
単なる 勘や けれど・・・
朝鮮半島から 来たか?
新羅(しらぎ)から 来たのか 任那(にんな みなま)からやってきたか、それとも白村江(はくすきのえ)の戦乱の前後にやってきたか それはよく解らないのだが、金属に関わった渡来系ではなかったのか と空想している
昨日は 宮崎県(九州)の みかど神社(西の正倉院がある) 山の中の 凄い所
ここの 正倉院の中の置いてある物を ユーチューブで見かけて これが気になって気になって ここに 僕の先祖伝来から 保存してる飾りと同じ物が保存されていて 気になって気になって施設の管理者の方に電話して 直接尋ねてみた
ここの博物館は 宮内庁も認めているみたいだから 凄い歴史的に重要な物が残っている
大阪から見学に行くとしたら 日帰りはかなり キツイか
朝一の飛行機に乗って 宮崎空港からレンタカー借りて2.5時間ほどか 11時には現地につけるかな~
まあ そこに西の正倉院がある
ここを 宮内庁が認められたには それなりの凄い証拠があるから 宮内庁も認められたのだろう
宮内庁というか 天皇がお持ちの 鏡と全く同じ鏡が此処から 出ている
これは 日本に3枚だったか4枚しかない 貴重なものらしい
その一枚は 奈良の大仏の横の正倉院にもある
日本人は何処から来たのか その鍵の一つだと思う
このみかど神社から もの凄い量の 鉄製の矛も出ている
矛 鏡 というのは それは 日本人が何処からやってきたかを 示していると思うんじゃ ワシ
古代史のレベルは 僕には学問が無くて 頼りない知識なのだが 感じる 勘 というか それは 自分でも強い方だと自分では勝手にそのように思ってるんじゃ ワシ。
正倉院というたら これも 藤原不比等が関係しているんや
藤原不比等が建てられたものではないが、 藤原不比等の2番目の嫁から 生まれたお子が 天皇のお后になられた 民間人からは 初めてになるのかな?
その天皇陛下がお亡くなりになり
その遺物を 正倉院に保存したのが始まりだ
犬養美千代(いぬかい みちよ)
どうも この女性が 凄い女性だったみたいだ
ネットで調べると 不比等を操った 嫁 みたいな事が書かれている
このお二人のお子が 聖武天皇のお后で
聖武天皇の死後に 正倉院を 建てた みたいだから
犬養美千代は この先 もっと 調べてみたいが
犬養 とは
阿居太都の命の末裔で もとは猟犬の飼育を職務としていた と ある
猟師系というたら 失礼になるか?
不要なことを書けば 不敬罪にも なるが なにしろ昔のことだhttp://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/keizu.htm
大伴氏の系図にも行くつくか?
此の系図をみると 不比等も出てくるし 左のほうには 空海も出てきて 佐伯氏やな
あんまり 書くとまずいか・・
とにかく 正倉院の中の物は 国の始まりと言うか
貴重な資料だ
そんで 日本人は 鏡が特に 大好きなんじゃ
日本人というても その昔は 皆 渡来してきたには間違いないんじゃがな
西暦600年代は 証拠が多数残っているので・・・
とにかく この時代の 藤原不比等 犬飼美千代 と そのお子 この人たちは その1300年以上も前に けっこうにグローバルだった と思うのじゃ
シルクロードからの 知識もかなり入っていたと想像する
藤原氏が 天皇家に 入っていかれたのが その時代だろう
しかし 西の正倉院を調べると 正に 百済じゃない・・
ただ この西の正倉院を再建築されたときに 韓国の学者さんが 関係してきている傾向がみえるので それには注意をしないとならない
百済の王は 敗れて 捕えられた 多分 殺された
その一族の人で 最後の 百済王が まず 広島県に逃れてきたみたいだ
その後 畿内に向って どうも その時代に 壬申の乱で 畿内は 戦乱になって また この最後の百済王は 宮崎県に逃れてきたみたいだ
壬申の乱が どうも よく 僕には理解が出来ていないのは ちょっと問題だが これは また よく調べて研究をしないと 歴史の 流れが読めなくなる
歴史にお詳しい方が 僕のブログを見たら 初心者マークで 勉強不足 って思われるだろうが まあ それは仕方がない
そりゃ そうじゃ 学校へ 中2くらいから まともに行っていないものが 書いているんだから
基礎知識は0や
その知識を 今から 高めようと 30代くらいからは 勉強はしてる
30代から 勉強をしたというのは 海外に出るようになって あまりにも 日本の事を知らないと 舐められるし
そんな事もある
6時か そろそろ 自分の仕事の頭に戻そう
銅は5760$ほどか 安いね~
計算すると 755円前後ですな~
日々 24時間 此れって 動いてるんじゃな~
ワシか なんで気にしてるかというと 資源系とか$とか
全財産の半分は そこに行ってるからね 気になる
資源関係でこれをお読みの人には
本日7/1から ステンレスも アルミも くず鉄も相場下げ
モーター屑も 銅の配管も 屑 全面安
相場が下がったので 単価は下げて仕入れるしか方法が無い
ステンレスは ニッケルが最安値なので 5円以上下落
もしかして 時間が経過したら 昨日よりも10円下げる
アルミ屑も 売り先が細ってきている 相場が出し難い
なんでなのか
それは 中国の鉱工業生産が悪化しているからである
このブログは 僕の担当の各金融も見ておられるので書いておくが でもね 新年度入りし 5.6月 僕個人的には
うまく 経営はやれている 売り上げも落とさず 経費は落として なんとか 廻している
サクヤ 2ヶ月の仮の決算みたいなのを 頭と紙で出してみて けっこう やれている
したたかに しなやかに なんとしても この激変を乗り越える
世界同時資源安
神様は 試練を与えて下さる
朝夕に 相場がよくなってくれることを祈っているが
なかなか よくならない
されど ヘコたれては ならない
死んでも 死なない
無茶言うぞ 死んでも へこたれない そういう気持ちだけは 持っておらんと この荒波は そうとうキツイ
中国の 上海総合も 荒波のような 上下や
日に 上下で11%も揺れた
波が荒いど~~
ほんでもな 昔の人でも 大航海して 命を懸けて
大海原に 出て行ったんじゃ
それは 命を懸けた 船の旅だったと 思う
そんで 百済の最後の王様は 宮崎県にも 追っ手が来て そこでも 戦いをしてる
その 昔の 物語を 地元の人たちが 1300年も前の事を 祭りのようなことで 残してくれているんじゃ
あんたとこの 先祖は百済か と 聞いたら 嫌 それは違う とはお答えになるが 宮崎にも 百済の関係の人たちが住み着いたんだと思う
勿論 吉備の国 備前や 播州 みまさか にも 百済の人が住みついた
白村江の戦いの 後に 凄い人数の 人たちが やってきた
http://tohnai.com/top_main.html
キビ国の古代史研究の先輩の書かれている文章の一部を勝手にコピ【】
-白猪しらいの屯倉みやけ-の部分
僕が考えるに 多分 これは西暦555年ごろではないかと空想する東内
蘇我氏の時代
白い猪は
王仁 わに 博士 漢字を伝来させた人で(枚方 寝屋川にご縁がありそうだ)
ヤマト王権は 朝鮮半島から王仁という学者を呼んだ
そして ワニ氏というんか 王仁博士と言う人なのか
漢字を持って招聘された人になるんかな~
【6世紀の後半になると、ヤマト政権は本腰を入れて吉備勢力の制圧に乗り出した。『日本書紀』に記された白猪屯倉や児島屯倉の設置は、吉備勢力が支配する地域にクサビを打ち込み、支配体制の強化の現れと解したい。
屯倉とは大王の建物(施設)が存在する一画を指す表現である。だが、その実態は倉庫や土地、および土地を耕作する専業農民を含むという。しかも、米穀の確保といった農業経営に関わるものに限らない。港湾など交通の要衝におかれた政治的・軍事的色彩の濃いものや、製塩・製鉄などヤマト大王権力が必要とする物資調達のためのものも含まれる。】
555年頃に 吉備のミマサカに 白猪 みやけ を設置したのが 蘇我氏(時の総理)
その屯倉の設置には 枚方の ワニ氏(百済系か?)ここらが 推し進めたんか?
勿論 それ以前から 吉備の国は 大きな力持っていたのだが 555年頃には 大和朝廷の直轄地になっていったか・・・
それは 大和朝廷に招聘され 漢字を持って渡来してきたオウジンの関係者が ミマサカを治めに来たと思う
ミマサカだけでは なく 瀬戸内の海の方にも 屯倉を設置したみたいだ
吉井川に 沿って ワニ氏(オウジン)が来た それは 蘇我氏の配下なのだろう
555年ごろ 枚方市(カタノ市を含む)と美作市は 関わっている感じや・・
555年というたら 継体天皇の死後 数10年後の辺り
継体天皇は 大阪府 枚方 高槻市やから
此の継体くらいの 近代化した力ならば 船で 吉備の国あたりなら すぐに行かれたと思う
高槻市で出ている 出土の武器を見れば レベルがかなり高いんだ
鉄や銅や 土器でも 古墳でも レベルが高い
元々はキビから ヤマトに行ったとしても
何代も経てば 親族でも 解らない様になって
親戚どうしでも 戦争するから・・・
555年頃に とにかく 吉備の国は ヤマト勢力に駐屯され 天領にされていったんかな~
此のあたりは 完全に空想の世界や
1500年も前の事は解りつらい
しかし 交野市の農民と ミマサカの農民の顔などは なんか似ているような感じだ
単なる 勘や けれど・・・
朝鮮半島から 来たか?
元吉備の国 中山太 東内誠 宮崎のみかど神社(正倉院)に興味 壬申の乱の時代[東内社長BLOG]
投稿日時:2015/07/01(水) 06:49
7月1日5時起床 久しぶりに眠れました 相場に翻弄される日々です 大阪港でグローバルな屑商を営むバタ屋屑商トーナイ 金属屑を集めて外航船をチャーターして海外に運び 売ったり買ったり日々 それやって過ごす立場の 東内誠 渡来人 ワシの先祖はその昔 むかし 金属を追って1300年以上も前に 大陸からやってきた
新羅(しらぎ)から 来たのか 任那(にんな みなま)からやってきたか、それとも白村江(はくすきのえ)の戦乱の前後にやってきたか それはよく解らないのだが、金属に関わった渡来系ではなかったのか と空想している
昨日は 宮崎県(九州)の みかど神社(西の正倉院がある) 山の中の 凄い所
ここの 正倉院の中の置いてある物を ユーチューブで見かけて これが気になって気になって ここに 僕の先祖伝来から 保存してる飾りと同じ物が保存されていて 気になって気になって施設の管理者の方に電話して 直接尋ねてみた
ここの博物館は 宮内庁も認めているみたいだから 凄い歴史的に重要な物が残っている
大阪から見学に行くとしたら 日帰りはかなり キツイか
朝一の飛行機に乗って 宮崎空港からレンタカー借りて2.5時間ほどか 11時には現地につけるかな~
まあ そこに西の正倉院がある
ここを 宮内庁が認められたには それなりの凄い証拠があるから 宮内庁も認められたのだろう
宮内庁というか 天皇がお持ちの 鏡と全く同じ鏡が此処から 出ている
これは 日本に3枚だったか4枚しかない 貴重なものらしい
その一枚は 奈良の大仏の横の正倉院にもある
日本人は何処から来たのか その鍵の一つだと思う
このみかど神社から もの凄い量の 鉄製の矛も出ている
矛 鏡 というのは それは 日本人が何処からやってきたかを 示していると思うんじゃ ワシ
古代史のレベルは 僕には学問が無くて 頼りない知識なのだが 感じる 勘 というか それは 自分でも強い方だと自分では勝手にそのように思ってるんじゃ ワシ。
正倉院というたら これも 藤原不比等が関係しているんや
藤原不比等が建てられたものではないが、 藤原不比等の2番目の嫁から 生まれたお子が 天皇のお后になられた 民間人からは 初めてになるのかな?
その天皇陛下がお亡くなりになり
その遺物を 正倉院に保存したのが始まりだ
犬養美千代(いぬかい みちよ)
どうも この女性が 凄い女性だったみたいだ
ネットで調べると 不比等を操った 嫁 みたいな事が書かれている
このお二人のお子が 聖武天皇のお后で
聖武天皇の死後に 正倉院を 建てた みたいだから
犬養美千代は この先 もっと 調べてみたいが
犬養 とは
阿居太都の命の末裔で もとは猟犬の飼育を職務としていた と ある
猟師系というたら 失礼になるか?
不要なことを書けば 不敬罪にも なるが なにしろ昔のことだhttp://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/keizu.htm
大伴氏の系図にも行くつくか?
此の系図をみると 不比等も出てくるし 左のほうには 空海も出てきて 佐伯氏やな
あんまり 書くとまずいか・・
とにかく 正倉院の中の物は 国の始まりと言うか
貴重な資料だ
そんで 日本人は 鏡が特に 大好きなんじゃ
日本人というても その昔は 皆 渡来してきたには間違いないんじゃがな
西暦600年代は 証拠が多数残っているので・・・
とにかく この時代の 藤原不比等 犬飼美千代 と そのお子 この人たちは その1300年以上も前に けっこうにグローバルだった と思うのじゃ
シルクロードからの 知識もかなり入っていたと想像する
藤原氏が 天皇家に 入っていかれたのが その時代だろう
しかし 西の正倉院を調べると 正に 百済じゃない・・
ただ この西の正倉院を再建築されたときに 韓国の学者さんが 関係してきている傾向がみえるので それには注意をしないとならない
百済の王は 敗れて 捕えられた 多分 殺された
その一族の人で 最後の 百済王が まず 広島県に逃れてきたみたいだ
その後 畿内に向って どうも その時代に 壬申の乱で 畿内は 戦乱になって また この最後の百済王は 宮崎県に逃れてきたみたいだ
壬申の乱が どうも よく 僕には理解が出来ていないのは ちょっと問題だが これは また よく調べて研究をしないと 歴史の 流れが読めなくなる
歴史にお詳しい方が 僕のブログを見たら 初心者マークで 勉強不足 って思われるだろうが まあ それは仕方がない
そりゃ そうじゃ 学校へ 中2くらいから まともに行っていないものが 書いているんだから
基礎知識は0や
その知識を 今から 高めようと 30代くらいからは 勉強はしてる
30代から 勉強をしたというのは 海外に出るようになって あまりにも 日本の事を知らないと 舐められるし
そんな事もある
6時か そろそろ 自分の仕事の頭に戻そう
銅は5760$ほどか 安いね~
計算すると 755円前後ですな~
日々 24時間 此れって 動いてるんじゃな~
ワシか なんで気にしてるかというと 資源系とか$とか
全財産の半分は そこに行ってるからね 気になる
資源関係でこれをお読みの人には
本日7/1から ステンレスも アルミも くず鉄も相場下げ
モーター屑も 銅の配管も 屑 全面安
相場が下がったので 単価は下げて仕入れるしか方法が無い
ステンレスは ニッケルが最安値なので 5円以上下落
もしかして 時間が経過したら 昨日よりも10円下げる
アルミ屑も 売り先が細ってきている 相場が出し難い
なんでなのか
それは 中国の鉱工業生産が悪化しているからである
このブログは 僕の担当の各金融も見ておられるので書いておくが でもね 新年度入りし 5.6月 僕個人的には
うまく 経営はやれている 売り上げも落とさず 経費は落として なんとか 廻している
サクヤ 2ヶ月の仮の決算みたいなのを 頭と紙で出してみて けっこう やれている
したたかに しなやかに なんとしても この激変を乗り越える
世界同時資源安
神様は 試練を与えて下さる
朝夕に 相場がよくなってくれることを祈っているが
なかなか よくならない
されど ヘコたれては ならない
死んでも 死なない
無茶言うぞ 死んでも へこたれない そういう気持ちだけは 持っておらんと この荒波は そうとうキツイ
中国の 上海総合も 荒波のような 上下や
日に 上下で11%も揺れた
波が荒いど~~
ほんでもな 昔の人でも 大航海して 命を懸けて
大海原に 出て行ったんじゃ
それは 命を懸けた 船の旅だったと 思う
そんで 百済の最後の王様は 宮崎県にも 追っ手が来て そこでも 戦いをしてる
その 昔の 物語を 地元の人たちが 1300年も前の事を 祭りのようなことで 残してくれているんじゃ
あんたとこの 先祖は百済か と 聞いたら 嫌 それは違う とはお答えになるが 宮崎にも 百済の関係の人たちが住み着いたんだと思う
勿論 吉備の国 備前や 播州 みまさか にも 百済の人が住みついた
白村江の戦いの 後に 凄い人数の 人たちが やってきた
http://tohnai.com/top_main.html
キビ国の古代史研究の先輩の書かれている文章の一部を勝手にコピ【】
-白猪しらいの屯倉みやけ-の部分
僕が考えるに 多分 これは西暦555年ごろではないかと空想する東内
蘇我氏の時代
白い猪は
王仁 わに 博士 漢字を伝来させた人で(枚方 寝屋川にご縁がありそうだ)
ヤマト王権は 朝鮮半島から王仁という学者を呼んだ
そして ワニ氏というんか 王仁博士と言う人なのか
漢字を持って招聘された人になるんかな~
【6世紀の後半になると、ヤマト政権は本腰を入れて吉備勢力の制圧に乗り出した。『日本書紀』に記された白猪屯倉や児島屯倉の設置は、吉備勢力が支配する地域にクサビを打ち込み、支配体制の強化の現れと解したい。
屯倉とは大王の建物(施設)が存在する一画を指す表現である。だが、その実態は倉庫や土地、および土地を耕作する専業農民を含むという。しかも、米穀の確保といった農業経営に関わるものに限らない。港湾など交通の要衝におかれた政治的・軍事的色彩の濃いものや、製塩・製鉄などヤマト大王権力が必要とする物資調達のためのものも含まれる。】
555年頃に 吉備のミマサカに 白猪 みやけ を設置したのが 蘇我氏(時の総理)
その屯倉の設置には 枚方の ワニ氏(百済系か?)ここらが 推し進めたんか?
勿論 それ以前から 吉備の国は 大きな力持っていたのだが 555年頃には 大和朝廷の直轄地になっていったか・・・
それは 大和朝廷に招聘され 漢字を持って渡来してきたオウジンの関係者が ミマサカを治めに来たと思う
ミマサカだけでは なく 瀬戸内の海の方にも 屯倉を設置したみたいだ
吉井川に 沿って ワニ氏(オウジン)が来た それは 蘇我氏の配下なのだろう
555年ごろ 枚方市(カタノ市を含む)と美作市は 関わっている感じや・・
555年というたら 継体天皇の死後 数10年後の辺り
継体天皇は 大阪府 枚方 高槻市やから
此の継体くらいの 近代化した力ならば 船で 吉備の国あたりなら すぐに行かれたと思う
高槻市で出ている 出土の武器を見れば レベルがかなり高いんだ
鉄や銅や 土器でも 古墳でも レベルが高い
元々はキビから ヤマトに行ったとしても
何代も経てば 親族でも 解らない様になって
親戚どうしでも 戦争するから・・・
555年頃に とにかく 吉備の国は ヤマト勢力に駐屯され 天領にされていったんかな~
此のあたりは 完全に空想の世界や
1500年も前の事は解りつらい
しかし 交野市の農民と ミマサカの農民の顔などは なんか似ているような感じだ
単なる 勘や けれど・・・
朝鮮半島から 来たか?
新羅(しらぎ)から 来たのか 任那(にんな みなま)からやってきたか、それとも白村江(はくすきのえ)の戦乱の前後にやってきたか それはよく解らないのだが、金属に関わった渡来系ではなかったのか と空想している
昨日は 宮崎県(九州)の みかど神社(西の正倉院がある) 山の中の 凄い所
ここの 正倉院の中の置いてある物を ユーチューブで見かけて これが気になって気になって ここに 僕の先祖伝来から 保存してる飾りと同じ物が保存されていて 気になって気になって施設の管理者の方に電話して 直接尋ねてみた
ここの博物館は 宮内庁も認めているみたいだから 凄い歴史的に重要な物が残っている
大阪から見学に行くとしたら 日帰りはかなり キツイか
朝一の飛行機に乗って 宮崎空港からレンタカー借りて2.5時間ほどか 11時には現地につけるかな~
まあ そこに西の正倉院がある
ここを 宮内庁が認められたには それなりの凄い証拠があるから 宮内庁も認められたのだろう
宮内庁というか 天皇がお持ちの 鏡と全く同じ鏡が此処から 出ている
これは 日本に3枚だったか4枚しかない 貴重なものらしい
その一枚は 奈良の大仏の横の正倉院にもある
日本人は何処から来たのか その鍵の一つだと思う
このみかど神社から もの凄い量の 鉄製の矛も出ている
矛 鏡 というのは それは 日本人が何処からやってきたかを 示していると思うんじゃ ワシ
古代史のレベルは 僕には学問が無くて 頼りない知識なのだが 感じる 勘 というか それは 自分でも強い方だと自分では勝手にそのように思ってるんじゃ ワシ。
正倉院というたら これも 藤原不比等が関係しているんや
藤原不比等が建てられたものではないが、 藤原不比等の2番目の嫁から 生まれたお子が 天皇のお后になられた 民間人からは 初めてになるのかな?
その天皇陛下がお亡くなりになり
その遺物を 正倉院に保存したのが始まりだ
犬養美千代(いぬかい みちよ)
どうも この女性が 凄い女性だったみたいだ
ネットで調べると 不比等を操った 嫁 みたいな事が書かれている
このお二人のお子が 聖武天皇のお后で
聖武天皇の死後に 正倉院を 建てた みたいだから
犬養美千代は この先 もっと 調べてみたいが
犬養 とは
阿居太都の命の末裔で もとは猟犬の飼育を職務としていた と ある
猟師系というたら 失礼になるか?
不要なことを書けば 不敬罪にも なるが なにしろ昔のことだhttp://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/keizu.htm
大伴氏の系図にも行くつくか?
此の系図をみると 不比等も出てくるし 左のほうには 空海も出てきて 佐伯氏やな
あんまり 書くとまずいか・・
とにかく 正倉院の中の物は 国の始まりと言うか
貴重な資料だ
そんで 日本人は 鏡が特に 大好きなんじゃ
日本人というても その昔は 皆 渡来してきたには間違いないんじゃがな
西暦600年代は 証拠が多数残っているので・・・
とにかく この時代の 藤原不比等 犬飼美千代 と そのお子 この人たちは その1300年以上も前に けっこうにグローバルだった と思うのじゃ
シルクロードからの 知識もかなり入っていたと想像する
藤原氏が 天皇家に 入っていかれたのが その時代だろう
しかし 西の正倉院を調べると 正に 百済じゃない・・
ただ この西の正倉院を再建築されたときに 韓国の学者さんが 関係してきている傾向がみえるので それには注意をしないとならない
百済の王は 敗れて 捕えられた 多分 殺された
その一族の人で 最後の 百済王が まず 広島県に逃れてきたみたいだ
その後 畿内に向って どうも その時代に 壬申の乱で 畿内は 戦乱になって また この最後の百済王は 宮崎県に逃れてきたみたいだ
壬申の乱が どうも よく 僕には理解が出来ていないのは ちょっと問題だが これは また よく調べて研究をしないと 歴史の 流れが読めなくなる
歴史にお詳しい方が 僕のブログを見たら 初心者マークで 勉強不足 って思われるだろうが まあ それは仕方がない
そりゃ そうじゃ 学校へ 中2くらいから まともに行っていないものが 書いているんだから
基礎知識は0や
その知識を 今から 高めようと 30代くらいからは 勉強はしてる
30代から 勉強をしたというのは 海外に出るようになって あまりにも 日本の事を知らないと 舐められるし
そんな事もある
6時か そろそろ 自分の仕事の頭に戻そう
銅は5760$ほどか 安いね~
計算すると 755円前後ですな~
日々 24時間 此れって 動いてるんじゃな~
ワシか なんで気にしてるかというと 資源系とか$とか
全財産の半分は そこに行ってるからね 気になる
資源関係でこれをお読みの人には
本日7/1から ステンレスも アルミも くず鉄も相場下げ
モーター屑も 銅の配管も 屑 全面安
相場が下がったので 単価は下げて仕入れるしか方法が無い
ステンレスは ニッケルが最安値なので 5円以上下落
もしかして 時間が経過したら 昨日よりも10円下げる
アルミ屑も 売り先が細ってきている 相場が出し難い
なんでなのか
それは 中国の鉱工業生産が悪化しているからである
このブログは 僕の担当の各金融も見ておられるので書いておくが でもね 新年度入りし 5.6月 僕個人的には
うまく 経営はやれている 売り上げも落とさず 経費は落として なんとか 廻している
サクヤ 2ヶ月の仮の決算みたいなのを 頭と紙で出してみて けっこう やれている
したたかに しなやかに なんとしても この激変を乗り越える
世界同時資源安
神様は 試練を与えて下さる
朝夕に 相場がよくなってくれることを祈っているが
なかなか よくならない
されど ヘコたれては ならない
死んでも 死なない
無茶言うぞ 死んでも へこたれない そういう気持ちだけは 持っておらんと この荒波は そうとうキツイ
中国の 上海総合も 荒波のような 上下や
日に 上下で11%も揺れた
波が荒いど~~
ほんでもな 昔の人でも 大航海して 命を懸けて
大海原に 出て行ったんじゃ
それは 命を懸けた 船の旅だったと 思う
そんで 百済の最後の王様は 宮崎県にも 追っ手が来て そこでも 戦いをしてる
その 昔の 物語を 地元の人たちが 1300年も前の事を 祭りのようなことで 残してくれているんじゃ
あんたとこの 先祖は百済か と 聞いたら 嫌 それは違う とはお答えになるが 宮崎にも 百済の関係の人たちが住み着いたんだと思う
勿論 吉備の国 備前や 播州 みまさか にも 百済の人が住みついた
白村江の戦いの 後に 凄い人数の 人たちが やってきた
http://tohnai.com/top_main.html
キビ国の古代史研究の先輩の書かれている文章の一部を勝手にコピ【】
-白猪しらいの屯倉みやけ-の部分
僕が考えるに 多分 これは西暦555年ごろではないかと空想する東内
蘇我氏の時代
白い猪は
王仁 わに 博士 漢字を伝来させた人で(枚方 寝屋川にご縁がありそうだ)
ヤマト王権は 朝鮮半島から王仁という学者を呼んだ
そして ワニ氏というんか 王仁博士と言う人なのか
漢字を持って招聘された人になるんかな~
【6世紀の後半になると、ヤマト政権は本腰を入れて吉備勢力の制圧に乗り出した。『日本書紀』に記された白猪屯倉や児島屯倉の設置は、吉備勢力が支配する地域にクサビを打ち込み、支配体制の強化の現れと解したい。
屯倉とは大王の建物(施設)が存在する一画を指す表現である。だが、その実態は倉庫や土地、および土地を耕作する専業農民を含むという。しかも、米穀の確保といった農業経営に関わるものに限らない。港湾など交通の要衝におかれた政治的・軍事的色彩の濃いものや、製塩・製鉄などヤマト大王権力が必要とする物資調達のためのものも含まれる。】
555年頃に 吉備のミマサカに 白猪 みやけ を設置したのが 蘇我氏(時の総理)
その屯倉の設置には 枚方の ワニ氏(百済系か?)ここらが 推し進めたんか?
勿論 それ以前から 吉備の国は 大きな力持っていたのだが 555年頃には 大和朝廷の直轄地になっていったか・・・
それは 大和朝廷に招聘され 漢字を持って渡来してきたオウジンの関係者が ミマサカを治めに来たと思う
ミマサカだけでは なく 瀬戸内の海の方にも 屯倉を設置したみたいだ
吉井川に 沿って ワニ氏(オウジン)が来た それは 蘇我氏の配下なのだろう
555年ごろ 枚方市(カタノ市を含む)と美作市は 関わっている感じや・・
555年というたら 継体天皇の死後 数10年後の辺り
継体天皇は 大阪府 枚方 高槻市やから
此の継体くらいの 近代化した力ならば 船で 吉備の国あたりなら すぐに行かれたと思う
高槻市で出ている 出土の武器を見れば レベルがかなり高いんだ
鉄や銅や 土器でも 古墳でも レベルが高い
元々はキビから ヤマトに行ったとしても
何代も経てば 親族でも 解らない様になって
親戚どうしでも 戦争するから・・・
555年頃に とにかく 吉備の国は ヤマト勢力に駐屯され 天領にされていったんかな~
此のあたりは 完全に空想の世界や
1500年も前の事は解りつらい
しかし 交野市の農民と ミマサカの農民の顔などは なんか似ているような感じだ
単なる 勘や けれど・・・
朝鮮半島から 来たか?
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